読書に合う音楽 ―ハイドン、スカルラッティ、そしてドトール店内のBGM
自室で本を読むときにはたいてい小さめのボリュームで音楽をかけている。ことしの前半はハイドンのシンフォニーにたいへんお世話になった。ハイドンの音楽は、バッハのそれよりはずっとくだけた調子でありながら、明晰で、作曲家のくだらない自意識などみじんも感じられないところが読書に合う。
ことしの後半はスカルラッティのピアノ・ソナタをよく聴いている。スカルラッティもとても良い。とくにホロヴィッツの演奏が素晴らしく、好んでかけている。スカルラッティの音楽もシステマティックにできているが、そこまで無機的でなく、嫌味でないほのかな情緒も感じさせながら、作曲家のつまらないエゴやプライドなど毛頭感じさせないところがやはり読書にぴったりする。
たまに町に出て、仕事帰りの途中などにドトール・コーヒーにしけこんで長時間読書に勤しむときがあるが、ドトールのBGMの選曲はじつにぼくの好みに合う。きちんと対価を払って選曲家に仕事をさせていることが流れてくる曲のセレクションから伝わってくる。手を抜いていない洗練されたポップスが多いが、けっこうバックビートの効いたファンキーな曲もかかっている。音量を間違えるとドトールの店内がダンスホールに早変わりしそうだが、そんなことはけっして起こらない。店員は礼儀正しくTカードの所持の有無を、顧客に訊ねている。おそらくあす世界が滅びるとしても、彼らは顧客がTカードを持っているか否かを確認するだろう。それこそがドトール精神に則った顧客対応基準なので仕方がないのだ。ぼくはあらゆるポイントカードの所持を拒んでいるので、毎回Tカードの所持を確認されることだけがドトールのサービスにおいて不満だが、調子に乗ると270円のアイスコーヒーで6時間も店内に粘りながら追い出されたこともない―たいていは2,3時間で退店するが―ユーザー・フレンドリーなドトールをこんごも断固支持していくつもりである。ドトールよ永遠なれ!そしてぼくの読書のますます捗らんことを!!
11月を期に8月をふりかえる。
2018年も11月になってしまった。ことしはあと2ヶ月で終わる。暦など便宜的なものに過ぎない。それは38年も生きているのでさすがに分かっている。が、しかし、その便宜に詩情が宿ったりするので、人生は厄介である。そして、その厄介な人生とは主にぼくの人生のことである。周りにもそれが難儀そうな人はむろんいるが…。
ほんの30分ほど前までまだ10月だったので、10月の振り返りをしようかと一瞬思ったのだが、振り返るほどのことは何もない…。いや、無いわけではないか、と思いつつEvernoteを開いてことしの(基本)一行日記を眺めていたのだが、9月以降まったく記入していない!!ぼくはよくTwitterでツイートしているので、それが自動的にマージされるサイト;Twilogを見返せばだいたい何をやっていたかは分かるのだ。だから、Evernoteで日記をつける必要もないような気がする。けれど、大量のツイートの中からじぶんがその日何をやっていたか振り返るのは手間ではあるが嫌いではない作業だ。
8月のEvernote日記が最新の日記なのでそれでも貼りつけてみる。いちぶプライバシーに配慮して人名をイニシャル表記にしたが、それ以外はほとんどすべてツイートを元にして、Evernoteに記したままである。では、どうぞお読みください。
じゃ、YMOのこのリマスター盤お聴きになりますか?
ぼくは何になろうとしているのか。
ぼくはことしに入ってから、とりわけ3月以降、読書と執筆に魂を燃やし始めた。新訳の『死に至る病』(講談社学術文庫)を読み、隣町の喫茶店の薄暗いテーブル席で烈しい衝撃を受けたあのとき、脳内の何かが弾けてしまったようなのだ。キルケゴールの信仰観にルターのそれが突き詰められた姿を見てしまったのだ...。
時折、アルバイトで出かける以外は、自室にこもって文献(書籍や論文)を読んだりしていることが多い(昼寝している場合もあるが)。そんなぼくの様子を同居している母が察して「あなたは何になろうとしているの?」と問うてきた。いい年をして(38歳・独身〔バツイチ子無し〕・しかも、キモくてカネがない)、何かになろうとしている気配を母に伝えてしまっているらしい。ああ、痛い。痛すぎる......。ごめんなさい、母さん...。ぼくは痛い息子です(泣)。
じっさいの母の質問には「う、うん…」と曖昧に口を濁したが、ぼくは哲学研究者と一般読者の仲立ちをするメディウムになりたいと思っているのである。まあ、メディウムというのがわかりにくいと思うので、言い換えてみると、架け橋というか。
ことしに入ってから古巣の同人ウェブ;En-Sophで公開したキルケゴールやシモーヌ・ヴェイユについての読書案内もそれを意図して作成している。彼らはちょっと地味な哲学者で、ふたりともキリスト教信仰を持っていることが特徴。もちろん彼らについての素晴らしい研究をしている日本人がいるのだが、なんとなく関心をもっている人がさっと飲み込めるような内容でもない。そこで、中途半端なぼくの出番である。研究者でもないが、さりとて読書の初心者でもない―ほんとうは読書のエキスパートと名乗りたいのだが、それは自重―ぼくが、キルケゴールやヴェイユについてなんとなく関心を持っている一般読者の方に向けて読書の手引きとなるようなものを作ってみたら、きっとあなたの役に立つのではないか。そんな思いで日々活動(?)を続けている。
ちなみに哲学にそこそこ立ち入ってしまっているが、ぼくの本分は音楽の批評にある。2019年はカントを読もうと思っているが、彼の美をめぐるクリティクにふれて、できればバウムガルテンの『美学』まで遡れればと思っている。これはもちろん、じぶんの音楽の批評の肥やしにするため。といってもカントは難解なことで有名な哲学者だ。とりあえずぼくは『判断力批判』を大づかみにしたいのだが、順番からいってもまずは『純粋理性批判』を読むべきだろう。むろん、どう考えても1年や2年でささっと済ませることのできる対象ではないことは分かっている。粛々とやっていくしかない。本を読むということは実に地道な行為のくりかえしであって、それを積み重ね一歩一歩ものごとを知っていくことしかできないのだ。まあそんなわけで、音楽の批評を本領としながら、哲学のメディウムとなるべく日々精進してまいりたい。今後とも、ご支援ご声援のほどよろしくおねがいします♪
ウェブサイト移転完了
むかし作っていたウェブサイト(フロスティッドグラス
http://www.geocities.jp/utubotique/)はgeocitiesに長らくお世話になっていたのですが、geocitiesは2019年3月末でサービス終了するとのことで、xreaに移転させました。無料ドメインが1年間付いてくるので、適当に設定しました。
http://utubotique.s1007.xrea.com/
さしあたり、上のURLをクリックすると、
に飛ぶようになっています。
今後ウェブサイトを更新することはあるのだろうか、とも思ったのですが、消滅するに任せるのももったいないと思い、今回のような措置をとったしだい。若い頃に書いたもの(なんせ、20年くらい前に書いたものが平然とアップロードされている)を久しぶりに目にしましたが、昔からいろいろ書いていたんだなあ、と思いました。それにしてもFTPしたのめっちゃ久しぶりでした(←おっさんおばさんにしか通じない)。
ディオゲネス・アレン『Three Outsiders』について
Amazonで注文していたDiogenes Allen(1932-2013)の『Three Outsiders』(1983, Cowley Publications)が夕方手元に届いた。テキサス州リッチモンドのErgode Booksというところから発送されたのだが、予定よりも1週間以上早く着いた。
この『Three Outsiders』は既成教会の外で活躍した3人のキリスト者(パスカル、キルケゴール、そしてシモーヌ・ヴェイユ)の類似点について論じた本で、著者の意図としては「どうやったら自分がひとりのクリスチャンになれるか」と問うている読者への手助けとして書かれたようだ。本当はこのエントリーで目次だけを紹介しようと思っていたのだが、エントリー1つを使用して紹介するほどの目次ではなかったので、手短に紹介しよう。まず、今日の精神生活と題されたまえがきがあり、そのあと時代順にパスカル (1623–1662)、キルケゴール(1813-1855)、ヴェイユ(1909-1943)の順で論じられ、最後に結論についてのノートと題されたあとがき(?)で閉じられる。脚注も本文138ページに対して22箇所ということで、さっぱりしている。思っていたよりも、初心者向けのやさしい本のようだ。内容もパラパラと見てみたが、大学1年生程度の英語力があれば、辞書を片手に読めるような内容に思える。
もっと分厚い研究書が届くのではないかと思っていたが、薄いペーパーバックが届いたので拍子抜けした。といっても洋書に触れるのは久しぶりなので、注意深く読んでいこう。ちなみにこの本、古書なのだが、2639円(送料込み)で購入した。裏表紙に定価が書いてあるが、8ドル95セントだ。定価の2倍ほどの価格で購入した計算になるのだが、この手の本はイニシャルもきわめて少ないだろうし仕方ない。あと10日ほどすると38歳になるので、バースデイプレゼントとでも思ってしっかり読み切りたい。ちなみに本書の著者については英語版Wikipediaに立項されているので関心をもった方は瞥見していただければと思う。Diogenes Allen - Wikipedia
エヴァ再見
新世紀エヴァンゲリオン 第壱話から第八話まで一気に観た。ミサトやリツコの服装が80sだという友の指摘にハッとさせられた。シンジのエヴァ搭乗への逡巡や恐怖は特に異常な感じもしないが、葛藤を繰り返し描くところは印象的。第八話でアスカとして登場するまで端役で声の出演を繰り返す宮村優子。アスカが好きなので、この第八話の終始コメディタッチの演出は楽しい。第九話も良い(瞬間、心、重ねて)。第拾話(マグマダイバー)も好き。そのあと、シンクロ率の低下に伴う精神状態の悪化に苦しむアスカを平然と眺めていられるかどうかはちょっとした試練であるw最後まで観届ける気分ではいるが。
全26話を起承転結で分けると第六話までが、"起"の部分に当たる。第七話で休止的なエピソード(人の造りしもの=JAの暴走)を挟み、第八話から、"承"の部分に入る。"起"=レイ編、"承"=アスカ編と考えると主軸になるキャラの性格上の違いからも演出の傾向が変わるのはとくに不自然ではない。もちろんTVシリーズは最後の"結"部が失敗しているわけだが、それが大化けしたのがエヴァンゲリオン現象だったのだ。