派遣労働者になってみて その1

ぼくは10年ほど前にサラリーマンを辞めてから、無職を経て、アルバイトで模試の採点をやっていた。時給は安かったが、交通費も出るし、わりと気に入っていたが、実質的には貯金を切り崩しながら暮らしていて、それも尽きた(その間には妻との別居と離婚があったがそれは本題ではない)。おまけに2019年の春に着任したあたらしい上司と馬が合わず、パワハラを受けるようになった。些細なミスなのに呼び出して叱責されたり、最終的にはいわゆる"シフト外し"を受けるようになった。勤務希望を出して全日出勤希望としても、1日だけしか入れてくれないわけだ。これは非常に悪質なやり方で、精神的な負荷が凄かった。労働組合の無い会社なので、社外の労働組合に加入して、闘争することも考えたが、どう考えても割に合わないので、2月の半ばあたりから、いくつかの派遣会社に登録し、派遣社員としてはたらくことを決めたのだった。

貧乏人はなぜその地位から這い上がれないかというと、お金が無いからである。お金が無いからこそお金が必要で、それゆえに安くても仕方ないとあきらめて過酷な環境で働き続ける。そして体を壊したり、精神を病んで、世の中の最下層に転落していく。むろん、最初から最底辺にいて、ずっと最底辺在住の人もいるのだが。いくつかの派遣会社に登録して気になったのは、給料の先払い制度をもっている会社が多いことだ。それは日払いだったり、週払いだったりするのだが、稼いだ額の2-3割を手数料として差し引いたうえで支払われる。まさに金に困った弱者を食い物にした貧困ビジネスの一端を垣間見た思いだった。つまり、派遣会社の多くは、派遣する社員の"足もと"をつねにみてそろばんを弾いているということだ。いっけん派遣社員のために便宜を図っているようにみえるが、手数料を2-3割もとるのは、率直に悪徳の極みだといっていいだろう。

ところでぼくの派遣労働の話だが、2月26日から池袋の高層ビルに入居するとある有名企業の関連会社に派遣されることになった。ここは親会社の歴史も古く、その出自からいって、官庁とのつながりも深い。大きな資本力をもった企業はコストを圧縮するために子会社をつくり、そこに顧客からの仕事を丸投げし、少ない社員のもと、実質的には派遣会社から大量の社員を雇い入れ、彼らに業務をすべて回させる。この派遣先の部署はデータセンターのようなものだが、その社員はなんと2ケタしかいない。そのしたになんと、約1000人の派遣社員が働いているのである。ぼくはこのことを知ってぞっとした。多かれ少なかれこの国の企業社会は完全に派遣労働に依存して成り立っている、その実例を目の当たりにしたからだ。

来る2020年4月1日に労働者派遣法が改正される。あと5日後である。非常に弱い派遣労働者の身分や待遇を改善することをねらいとして、派遣元・派遣先の双方にわりと厳しい法的な義務などを課すものだが、これによって派遣業界がどうなっていくのかは適宜注意してみていきたいと考えている。企業の多くは、内心法律の改正など事務仕事が劇的に増えて面倒至極と思っているに違いないし、短期的に派遣の実態が変化していくかどうか、それはかなり微妙なところだと思う。悪質な企業は法律の裏をかいたり、抜け道をさがすのが常だ。もちろん大手派遣会社を中心として法令遵守の意識を高めるようにはなるだろうが、そのことによって派遣労働することの質、そして派遣業界全体がすこしはマシになっていくだろうか。大いに批判的な立場で考えてゆきたい。で、ぼくの仕事はとりあえず短期派遣で働いたので、この3月末で終わってしまう。引き続き、職探しが続くのである。むろん、派遣労働にこだわらず、アルバイトも含めてなんらかの仕事でお金を稼ぐつもりである。

瀬川裕美子ピアノリサイタル バッハを聴く~多次元的接触の宇宙へ~を聴いて

2019年9月28日(土)、夕刻から世田谷区・三軒茶屋駅前のサロン・テッセラで瀬川裕美子さんのピアノリサイタルが開かれた。タイトルは「バッハを聴く~多次元的接触の宇宙~」。プログラムは次の通り。

ストラヴィンスキー:タンゴ(1940年)
J.S.バッハ:イギリス組曲第4番ヘ長調BWV809(1715?-20年、全曲)
バルトーク:戸外にて Sz.81(1926年、全曲)
<<<休憩(15分)>>>
武満徹:雨の樹 素描Ⅱ―オリヴィエ・メシアンの追憶に―(1992年)
メシアン:「4つのリズムエチュード」より『火の鳥
』(1949-50年)
湯浅譲二:内触覚的宇宙(1957年)
J.S.バッハ:パルティータ第6番ホ短調BWV830(1725-31年、全曲)
<<<アンコール>>>
J.S.バッハ:コラール「われらの苦しみの極みにあるとき」BWV432(弾き歌い)

タイトル通りの内容で、瀬川さんの愛するバッハの演奏を心ゆくまで堪能できるリサイタルだった。イギリス組曲第4番。バッハという音楽の大海原をクロールでずんずんと泳いでいくピアニストがそこにいた。バッハの構築した精神―エトスとパトスのせめぎあい―が彼女によってひたむきに奏じられるとき、そこから立ち上がっていく祈りのようなものをぼくは感じた。

前半のバルトーク「戸外にて」は、とくに打楽器的な迫力と野性の雰囲気に満ちた演奏で特筆したい。不協和的な調べに満ちた音の連なりが、律動の力学をエネルギーとして、音楽を力強くかたちづくっていく。とくに第4曲:夜の音楽(レント)の左手がくりかえす持続するモチーフがミニマリスティックで心地よかった。

今回演奏されたストラヴィンスキー武満徹メシアン湯浅譲二の各曲はどの曲も短いが、すべて高度な技巧と現代的な表現力が求められるものだ。ストラヴィンスキーメシアンの演奏では強烈なアタックが演奏者に求められ、しばしば瀬川さんのからだはお尻から頭の先へと突きあがるように動いた。それを眺めていて、ピアノという楽器のアンサンブルは、ゆびとゆびのレベルではなく、その上にゆびとうでのレベルがあり、そのさらに上にはうでとからだ(体幹)があると気づいた。そう、ピアニストはすべての曲を全身で弾いていたのだ!サロン・テッセラはこじんまりとしたビル内の天上の高い―6mほどある―会場なので、演奏者と客席がとても近い。それも手伝って、ピアニストがからだ丸ごとを用いて、ピアノをつうじバッハの魂とアンサンブルしているのがうまく感じ取れたのだと思う。

ぼくは怠惰なこともあって、彼女の演奏をすべて観ているわけではない。しかし、トッパンホールのような大きな会場での緊張感に満ちた瀬川さんの演奏ももちろん魅力的だが、どこかリラックスし、喜びにあふれたバッハの演奏を心ゆくまで味わえたことは貴重な体験で有難かった。

後半の最後に披露されたパルティータ第6番は、トッカータからジーグまで悲愴な情念に満ちた楽想で知られる。けれども、それを弾き続けるピアニストによって生きることの苦しみは、しだいに熱を帯びてあふれ出す歓喜へと変わっていった。それはもしかすると、彼の深い信仰に通じるものだったのかもしれない。バッハを弾けることの愉悦が演奏の進みゆきと共にほとばしっていく空間を、熱心な聴衆の方々と共有できた時間はとても喜びに満ちたものだった。

JMLミニレクチャー「音楽における「拡張と収縮」について考える」

2019年3月31日(日)、世田谷区松原5丁目所在のJMLでオランダの現代作曲家、ピート=ヤン・ファン・ロッスムさんとピアニスト瀬川裕美子さん、現代作曲家鈴木治行さんのお三方による約2時間のレクチャー「音楽における"拡張"と"収縮"について」が開かれたので行ってきた。JMLを訪ねるのは、昨年2018年2月以来約1年ぶり。ちなみに前回も来日していたロッスムさんによるレクチャーだった。ロッスムさんが彼の音楽について語るうちにどんどん熱くなり、3時間を超える長丁場になったことをうっすらと覚えている。

今回のレクチャーは、彼が2018年に作曲したアンサンブル作品『Hanso-bo』(鎌倉にある寺の名前[半僧坊]から採られたタイトル)が、ピアノのために編曲されことし「amour」となり、その世界初演を瀬川さんが、先日2月23日にトッパンホールにて開かれた自身の第7回目のリサイタルで行ったことを契機に開催された。まず最初にロッスムさんが、彼に大きな影響を与えた作曲家としてウェーベルンマーラーを挙げ、ウェーベルンはその音楽の凝縮性を称え、マーラーについてはその音楽が長大すぎることを批判したあとで、ロッサムさん1995年作の「Als een zin...」(オランダ語で「一文のように」の意)を聴いた。ウッドブロックが印象的に用いられており、どこか日本的なリズムとも相まって、東洋的な響きに彩られた曲である。彼は日本に滞在していた2014-5年頃、初めて能を鑑賞し、その物語は理解できないものの、能舞台の雰囲気やサウンドに大きく触発を受けたという。
 
次いで、2019年5月に初演予定のロッスムさんのテープ作品「at all, mainly」を聴いた。抽象的で無の精神を感じさせる禁欲的な音響に、ドイツ語や日本語(「火の用心!」というセリフ)の語りが付け加えられており、それは、日本人であるぼくの耳から聴くと、どこか滑稽味があった。この作品についてロッスムさんに尋ねたところ「ドイツ語のセリフは母国オランダでの海面上昇に問題についてのもので、日本語の「火の用心!」はそのことばの響きそのものも気に入ったが、火の用心(火気に気をつけろ)の"火"は"日"(太陽)にも通じるから、地球温暖化に気をつけろ、という意味でもある」というような返答があり、とてもユニークだと感じた。ここでマルグリット・デュラス独特の取り立てて何も起こらない空間を、持続的に描写することによって作品にもたらされる緊張感を維持する小説手法にロッスムさんが、自身の作曲において深くインスパイアされていることが述べられ、鈴木治行さんが1990年代初頭に作曲された『三角洲』(フルート、クラリネット、ピアノのアンサンブル曲)の解説に移った。『三角洲』には4種類のモチーフがありそれはきわめて短く小さなものだが、曲の中で徐々にモチーフが拡張されることが、聴衆全体で曲の録音を聴きながら、鈴木さん自筆の譜面と黒板の図示によって分かりやすく説明された。
 
5分ほど休憩の後、後半は、ロッスムさんが今回編曲した「amour」についての話となった。配布された資料には『Hanso-bo』が「amour」に凝縮される過程で書かれた譜面が掲載されており、ここには「amour」では省かれた定旋律が記載されていた。「amour」に編曲している際も彼の脳内ではこの通奏音が鳴っており、それは曲の安定性、また神の声を象徴しているが、ピアノ1台のための編曲であることを考慮して割愛されたようだ。このあと、実際に『Hanso-bo』の一部をみなで聴いたのだが、チューブラベルとヴァイブラフォーンを用いて、沈黙が音楽的に表現されており、楽曲全体にどこか壊れ物がはらむような繊細な感覚が溢れていた。「amour」は2021年初演予定のピアノコンチェルトに"拡張"されることが示唆され、その後ピアニスト瀬川さんによる10分余りの「amour」の演奏でレクチャーは締めくくられた。「amour」は世界初演時に聴いたときも感じたのだが、メロディがピアノの低音部~高音部にくりかえし跳躍することを曲の推進力としており、きわめて洗練されている。その思いを改めてかみしめることができ、とても良かったと思う。
 
ちなみに実際の催しでは、テープ作品「at all,mainly」の鑑賞と、デュラスの小説技法についての話の間に、瀬川さんによるブーレーズ作品の拡張する編曲手法(ピアノ曲→オーケストラ作品など)が、ロッスムさんの収縮する編曲(アンサンブル作品『Hanso-bo』→ピアノ作品「amour」)と正反対の方法として分析された。ぼく自身のブーレーズに関する理解と知識はきわめて粗末なため詳述することは控えるが、ただ、とくに瀬川さんがリサイタルでも演奏したピアノソナタ第2番(1948年)で展開される、音程の上昇/下降するモチーフについては、丁寧に作られた資料が配布されたこともあって視覚的に容易に理解できるようになっていたことは特筆したい。
 
最後に。JMLは入野義朗さんが設立した音楽事務所が元となっており、1980年に同氏が亡くなったあとは、高橋禮子さんが現代音楽などを学ぶ場として運営されている。いつも肩ひじ張らないアットホームな雰囲気で催しが行われているようだ。機会があったらぜひ足を運んでほしいと思う。参加された皆様はお疲れさまでした。とくにソロリサイタルの後にもかかわらず、イベントを企画した瀬川さんにはとりわけご自愛くださいと申し上げたい。では、ここまで読んでくださってありがとうございました。(おわり)

もう3月だぜ

細野晴臣さんの『HOCHONO HOUSE』がリリースされたので、さっそくGooglePlayMusicで聴いた。リリースされて30分後にはオンラインで聴けるのだから凄い。ファーストインプレッションは「磨きこまれた天然木のようなサウンド」。1か月前は友人が演奏した無調の音楽の美しさをどのような比喩に託せばよいのか考え込んでいたのだが、それから1か月経って、こんどは調性ある録音された音楽の美しさをどのようなそれに託せばよいのか考えている。ひんぱんに音楽について考えてはいるのだが、最近書くことを怠っているなと、はてなブログからのメールで気づかされた(はてなブログユーザーの方ならお分かりだと思うのだが、このブログは記事を書いていないと1か月をめどに「記事を書きませんか」と促すメールを送ってくる)。

細野さんの『HOCHONO HOUSE』は、1973年にリリースされた『HOSONO HOUSE』というファーストアルバムの収録曲を2018年から19年にかけて、正反対の順番で新たに構築して録音し直したもの。そういう意味では新曲は1曲もないのだが、確かに新しさが感じられる。率直に言えば、細野さんの編曲の巧みさ、丁寧さ、深さがしみじみと味わえる作品なのだ。音による美的な工芸品とでも例えたらいいだろうか。まだ言葉を重ねることに衒いがあるので、くりかえし聴いて、印象を定着させていきたいと思う。しかし、アルバムを最初に一周聴いて思ったことは「良い!かっこいい!もう1回最初から聴きたい!!」。この思いが一回また一回聴きこむたびにじわじわと強くなっていくのではないだろうか。

無調の音楽の美しさ

1月の後半に友人のソロピアノコンサートを観にいって感銘を受けた。それは端的に言って、無調の音楽にも美しさはあるということ。それに改めて気づかされたのだ。音楽通にとってみれば、ごく当たり前のことなのかもしれないし、自分も今までまったく無調の音楽に触れてこなかったわけではないから、その音楽にも何らかの美的感覚を覚えたこともあっただろう。しかし、率直に言って無調の音楽というのは四六時中聴いていられるようなものでもない。たとえば、ドトールとかタリーズとかああいったチェーンの喫茶店のBGMが無調の曲だけだったらどうなるだろうか。おそらく気分が悪くなるお客も出てくるだろうし、テーブルによっては会話が弾まなくなる可能性も否めない...。

まあ、ぼくはそんなわけでその友人のコンサートのレビューを書こうと思っているのだが、あいかわらず書きあぐねている。たいした文章力もないのに、完璧と思えるレビューを書きたいのだ。理想が高いのは結構だが、現実を見たほうがいい気もする。だいたい、自分がいくら丹精込めて書いたところで…いやいや、過剰に自己卑下するのは性に合わないのでこのへんにとどめておこう。ぼくは音楽理論には疎いので、無調の音楽の良さをなにかぴったりくる喩えを用いて書き表すしかない。そこまでは分かっているのだが...。

おれわた2018 ―さえきかずひこの場合

かなしいうわさの石井さんのおれわたは2018年も育児休業されるとのことで、ことしも一人でやります。
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■2018年にリリースされた音楽で、良かったものベスト10

  • ボブ・ラディックがリマスタリングしたYMO『Solid State Survivor』(オリジナル:1979年)。
    とくに「Castalia」(作曲:坂本龍一)冒頭のドアが開く音にかかっているエコーの感じ。また「Insomnia」(作曲:細野晴臣)冒頭の金属的な音の感触。
  • 砂原良徳リマスタリングしたYMO「The Madmen」、「Simoon」(作曲:細野晴臣)、細野晴臣「Sports Men」(コンピレーションアルバム『Neue Tanz』収録)。各曲、低音の良く鳴るスピーカーで大きな音で聴きたくなる。
  • 『タケちゃん健ちゃん ごきげんWCD』のdisc2に収録されたマツケン先生の新曲「Emerald Boy


■2018年にリリースされた作品以外で、よく聴いた音楽

ジョン・オグドン / メシアン:幼児イエズスに注ぐ20のまなざし
ムジカ・アンティクヮ・ケルン / 17世紀バルト海の音楽
ピョートル・アンデルジェフスキ / シマノフスキ: ピアノソナタ第3番、メトープ、仮面劇
グレン・グールド / シューマン:ピアノ四重奏曲 作品47
グレン・グールド / ベートーヴェン交響曲第5番(編曲:リスト)
ソン・ヨルム / Modern Times
ナイ・パーム / Needle Paw
ガブリエル・ガルソン・モンターノ / Jardín
ヴェロニカ・フェリアーニ / Porque a boca fala aquilo do que o coração tá cheio
テテ・モントリュー / Words of Love
ジャネール・モネイ / Dirty Computer
ヨルジャ・スミス / Lost & Found
ソランジュ / A Seat at the Table
エンリコ・ピエラヌンツィ / Duke's Dream
エンリコ・ピエラヌンツィ / Monsieur Claude

Itoh Masitoh & Rineka Gaya Group / Naon Margina (Jaipong Kalangenan Rumaja)

V.A. / STEINS;GATE Original Soundtrack
V.A. / STEINS;GATE SYMPHONIC REUNION
阿保 剛、信澤宣明、日向 萌 / TVアニメ『シュタインズ・ゲート ゼロ』オリジナル・サウンドトラック

ホロヴィッツの演奏によるスカルラッティピアノソナタの録音いろいろ

(読書に集中するのにとても役立った)
ハイドン交響曲の録音いろいろ
(読書に集中するのにとても役立った)
モーツァルトのレクイエム(長年食わず嫌いしていたモーツァルトを聴き始めました)

■今年のこの1曲
Zwei / Last Game

ことし放送されていたTVアニメ『シュタインズ・ゲート ゼロ』のエンディングテーマです。
歌詞、メロディ、アレンジすべて気に入り、300回くらい聴きました。

■ライブ、イベント等々で良かったもの

1/21 瀬川裕美子 ピアノリサイタルvol.6 ドゥルカマラ島~時間の泡は如何に?d→d
2/17 NES BAND@初台ドアーズ
6/30 小林このみトリオ アップライトピアノのためのコンサート 第二回@水道橋・ftarri 
10/8 新宿文藝シンジケート第91回読書会 課題図書:姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』@水道橋・路地と人

12/30 近藤譲講演会2018:講演とオープン・ディスカッション@両国・門天ホール

■音楽以外でのベスト10


2018年に読んだ本のベスト10はこちらから
https://utubo.hatenablog.com/archive/2018/12/29

■2018年はどんな年でしたか?

キルケゴールシモーヌ・ヴェイユに傾倒。成果物はこちら。
http://www.en-soph.org/archives/51975225.html
http://www.en-soph.org/archives/52282089.html

■石井さんへのメッセージ

ことしは2月から妹の子供たちと10か月一緒に暮らしていたので、育児の大変さの幾分かは理解したつもりでいます。彼らは常に全力で挑みかかってきます。そして突然電源が切れたかのように眠りに落ちます。小学生にもなると、なかなかの知恵者です。彼らが愛されたように、ぼくも子供のころ周りの大人たちから愛されて育ったのかもしれない。そんな風に感じながら過ごした2018年でした。別居していた妻とは8月に離婚しましたが、わりと幸せを感じられた一年だったのかも。石井さん、引き続き、音楽と愛のある育児、がんばってください!狭山から応援しています!!

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おれわた2017↓見たい方はこちら

http://d.hatena.ne.jp/utubo/20171231

2018年 あれ読んだこれ読んだ ―さえきかずひこの場合

2018年、ことし一年間に読んだ本の中から素晴らしいと感じたものを10作品選んでみました。

 

  1. リュディガー・ザフランスキー『ショーペンハウアー』(法政大学出版局
  2. 仲正昌樹『「自由」は定義できるか』(バジリコ)
  3. 冨原眞弓『シモーヌ・ヴェイユ』(岩波書店
  4. セーレン・キルケゴール死に至る病』(講談社学術文庫
  5. エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』(東京創元社
  6. ジェルジ・ルカーチ実存主義マルクス主義か』(岩波書店
  7. 『定本 柄谷行人文学論集』(岩波書店
  8. 鈴木順子『シモーヌ・ヴェイユ 「犠牲」の思想』(藤原書店
  9. カール・レーヴィットヘーゲルからニーチェへ』(上下・岩波文庫
  10. 轟孝夫『ハイデガー存在と時間」入門』(講談社現代新書

 

ショーペンハウアー』は哲学史家ザフランスキーによるショーペンハウアーの評伝で、彼の渡り歩いたドイツの町々が実に魅力的に描かれていて印象的でした。『「自由」は定義できるか』は自由という考えを定義することの難しさについて書かれた本です。冨原さんの『シモーヌ・ヴェイユ』も34年という短い生涯を燃やし尽くしたヴェイユについての優れた評伝です。キルケゴールの『死に至る病』は気鋭の哲学研究者、鈴木祐丞さんによる2017年の翻訳。読みやすいです。フロムの『自由からの逃走』はドイツにおいてルターの信仰義認論がナチズムを招来する思想的準備を行ったと論じるとても興味深い示唆に富む一冊。政治と宗教の関係を考える上で有用だと思います。ルカーチ実存主義マルクス主義か』は古い本ですが、ルカーチマルクス主義の立場から、フランスの実存主義者(サルトルボーヴォワールメルロ=ポンティ)を批判している本で実存哲学の系譜について考えているぼくにとって読む価値がありました。『定本 柄谷行人文学論集』は柄谷の文学批評についてまとめたものですが、漱石について論じているものがとても面白かったです。鈴木順子『シモーヌ・ヴェイユ 「犠牲」の思想』は多面的な活躍をしたヴェイユの根底に「犠牲」という思想を見出し、彼女の一貫した生きる姿勢をあぶりだした現代日本ヴェイユ研究の白眉ともいえる一冊です。カール・レーヴィットヘーゲルからニーチェへ』は19世紀の哲学において次第に崩壊してゆくヘーゲル思想の移り変わりが活写されています。三島憲一さんによる翻訳も素晴らしい!轟孝夫『ハイデガー存在と時間」入門』はハイデガーの思索がキリスト教教義学から始まったことを踏まえたうえで『存在と時間』を解釈していくきわめて意欲的な入門書です。この10冊以外にも心に残った本はもちろん幾冊もあるのですが、それらの話もしているとなかなか終わりそうにないので、このへんで。

あ、ちなみに2017年分の「あれ読んだこれ読んだ」を読みたい方はこちら。