村上春樹のエルサレム賞受賞について



村上春樹エルサレム賞受賞のニュースにかんする盛り上がりが、はてな界隈のブログを見ているとずいぶんにぎやかなのでおもしろく見ている。エルサレム賞は個別の作品ではなく、作家そのものに与えられる賞のようなので、このことが契機になって各国で春樹研究が進むといいなと期待している(エルサレム賞についての理解はこちらのブログが参考になった)。受賞そのものが単なるイベントとして消費されない可能性が残っていくと素晴らしいし、村上春樹本人もそのような強い意志のもとで、挑戦的なスピーチをしたのだと感じる(脱線して文学賞の功罪について述べる誘惑があるが、きりがなくなりそうなので書かない)。イスラエル人による春樹論とか、パレスチナ人による春樹論なんか読むことができたら愉しいだろうなあと素朴に思うのだ。日本語に翻訳されるほどのものはあまりないのかもしれないけど。わたしは研究者でないのでよく知らないが、英文による論文はすでに結構存在するのかもしれない。英語はそれなりに読めるが、本格的な論文となると自分の語学力じゃ歯が立たないかもしれないな。


村上春樹は1990年代中盤以降、明らかに作風が変化しており、それは阪神淡路大震災とオウムの地下鉄サリン事件がきっかけとはよく言われている。特にアンダーグラウンド (講談社文庫)約束された場所で (underground2)を読むと、オウム事件に彼がどれだけインスパイアされたかわかる(単純にインスパイアって言い方もどうかと思うが)。未読の方はぜひ読んでほしい。春樹嫌いでもルポルタージュ風の構成なのでとっつきやすいだろう。神戸の震災の衝撃は「かえるくん、東京を救う」(短篇集神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)収録)などで寓話というスタイルを借りて吐露されている。吐露というか、象徴化されているというほうがやや正確かもしれない(こういう文章は作品をきちんと読み返してから書くべきだと反省)。わたしはオウム事件とその現象については今なお論じる価値のある問題だと思うし、それを取り上げた点だけでも春樹の作家としての価値は高いと考えている(需要が無いので語られないのだろうが、いまも学者などはオウム事件を研究しているだろうか)。


春樹が今回のような政治的なパフォーマンスを行うのは不思議だと感じる人もいるだろう。だが、90年代以降の春樹作品をたどれば、驚くことでもない。しかし、これを機にガンガン社会問題について発言して文化人みたいになるかというと彼はそれははしない。ファンであれば、基本的には、彼の小説に期待すべきで、言うべきことは作品で言う、というのが小説家だ。とは、これまた古めかしい定義かもしれない。けれども春樹は基本的にこの路線を堅く守っている。わたしは11歳ころから春樹作品を読み始め、いまでもいちおう追いかけてはいるが、近作は再読する欲が起こらない。これは個人的に小説的な何かを読書に求めなくなってしまったことが大きいのだが、この10年くらいで出ている作品で読み返したものは、それ以前の作品に比べてきわめて少ない。というかほとんどない。その理由について考えたこともあまり無かったが、これを機にあらためて考えてみるのも面白いかもしれない。


追記(02/20)


Always on the side of the egg By Haruki Murakamiというタイトルでスピーチの全文が公開された(友人のmixi日記で知った)。村上春樹 受賞スピーチの翻訳 全文村上春樹:常に卵の側に などの和訳を興味深く読んだ。ぜひ自分でも訳してみたい。一読しての感想を述べると、"システム"ってのは80年代に流行った言い方で、彼の80年代の作品を読んでいると良く出てくることもあって、それを現在の文脈で遣っているのは興味深い(ファンへの目配せとも思える)。また、春樹は妻以外の家族についてはほとんど作品で言及しないが父親についてのエピソードをこれだけ開陳するというのは珍しいと感じた(公に父親に対する敬愛の念を述べることはなかったのではないか)。という理解はまあ表層的なもので、これだけデモクラシー(というか"システム")におけるインディビジュアリズムを、文学的視点から提出できる日本の作家ってユニークで重要な存在だと思う。あとは、この誇り高い調子が印象的。春樹の作家としての自信を表している。何度か繰り返し読んでみたい。