ぼくは何になろうとしているのか。

ぼくはことしに入ってから、とりわけ3月以降、読書と執筆に魂を燃やし始めた。新訳の『死に至る病』(講談社学術文庫)を読み、隣町の喫茶店の薄暗いテーブル席で烈しい衝撃を受けたあのとき、脳内の何かが弾けてしまったようなのだ。キルケゴールの信仰観にルターのそれが突き詰められた姿を見てしまったのだ...。

時折、アルバイトで出かける以外は、自室にこもって文献(書籍や論文)を読んだりしていることが多い(昼寝している場合もあるが)。そんなぼくの様子を同居している母が察して「あなたは何になろうとしているの?」と問うてきた。いい年をして(38歳・独身〔バツイチ子無し〕・しかも、キモくてカネがない)、何かになろうとしている気配を母に伝えてしまっているらしい。ああ、痛い。痛すぎる......。ごめんなさい、母さん...。ぼくは痛い息子です(泣)。

じっさいの母の質問には「う、うん…」と曖昧に口を濁したが、ぼくは哲学研究者と一般読者の仲立ちをするメディウムになりたいと思っているのである。まあ、メディウムというのがわかりにくいと思うので、言い換えてみると、架け橋というか。
ことしに入ってから古巣の同人ウェブ;En-Sophで公開したキルケゴールやシモーヌ・ヴェイユについての読書案内もそれを意図して作成している。彼らはちょっと地味な哲学者で、ふたりともキリスト教信仰を持っていることが特徴。もちろん彼らについての素晴らしい研究をしている日本人がいるのだが、なんとなく関心をもっている人がさっと飲み込めるような内容でもない。そこで、中途半端なぼくの出番である。研究者でもないが、さりとて読書の初心者でもない―ほんとうは読書のエキスパートと名乗りたいのだが、それは自重―ぼくが、キルケゴールヴェイユについてなんとなく関心を持っている一般読者の方に向けて読書の手引きとなるようなものを作ってみたら、きっとあなたの役に立つのではないか。そんな思いで日々活動(?)を続けている。

ちなみに哲学にそこそこ立ち入ってしまっているが、ぼくの本分は音楽の批評にある。2019年はカントを読もうと思っているが、彼の美をめぐるクリティクにふれて、できればバウムガルテンの『美学』まで遡れればと思っている。これはもちろん、じぶんの音楽の批評の肥やしにするため。といってもカントは難解なことで有名な哲学者だ。とりあえずぼくは『判断力批判』を大づかみにしたいのだが、順番からいってもまずは『純粋理性批判』を読むべきだろう。むろん、どう考えても1年や2年でささっと済ませることのできる対象ではないことは分かっている。粛々とやっていくしかない。本を読むということは実に地道な行為のくりかえしであって、それを積み重ね一歩一歩ものごとを知っていくことしかできないのだ。まあそんなわけで、音楽の批評を本領としながら、哲学のメディウムとなるべく日々精進してまいりたい。今後とも、ご支援ご声援のほどよろしくおねがいします♪