瀬川裕美子ピアノリサイタル バッハを聴く~多次元的接触の宇宙へ~を聴いて

2019年9月28日(土)、夕刻から世田谷区・三軒茶屋駅前のサロン・テッセラで瀬川裕美子さんのピアノリサイタルが開かれた。タイトルは「バッハを聴く~多次元的接触の宇宙~」。プログラムは次の通り。

ストラヴィンスキー:タンゴ(1940年)
J.S.バッハ:イギリス組曲第4番ヘ長調BWV809(1715?-20年、全曲)
バルトーク:戸外にて Sz.81(1926年、全曲)
<<<休憩(15分)>>>
武満徹:雨の樹 素描Ⅱ―オリヴィエ・メシアンの追憶に―(1992年)
メシアン:「4つのリズムエチュード」より『火の鳥
』(1949-50年)
湯浅譲二:内触覚的宇宙(1957年)
J.S.バッハ:パルティータ第6番ホ短調BWV830(1725-31年、全曲)
<<<アンコール>>>
J.S.バッハ:コラール「われらの苦しみの極みにあるとき」BWV432(弾き歌い)

タイトル通りの内容で、瀬川さんの愛するバッハの演奏を心ゆくまで堪能できるリサイタルだった。イギリス組曲第4番。バッハという音楽の大海原をクロールでずんずんと泳いでいくピアニストがそこにいた。バッハの構築した精神―エトスとパトスのせめぎあい―が彼女によってひたむきに奏じられるとき、そこから立ち上がっていく祈りのようなものをぼくは感じた。

前半のバルトーク「戸外にて」は、とくに打楽器的な迫力と野性の雰囲気に満ちた演奏で特筆したい。不協和的な調べに満ちた音の連なりが、律動の力学をエネルギーとして、音楽を力強くかたちづくっていく。とくに第4曲:夜の音楽(レント)の左手がくりかえす持続するモチーフがミニマリスティックで心地よかった。

今回演奏されたストラヴィンスキー武満徹メシアン湯浅譲二の各曲はどの曲も短いが、すべて高度な技巧と現代的な表現力が求められるものだ。ストラヴィンスキーメシアンの演奏では強烈なアタックが演奏者に求められ、しばしば瀬川さんのからだはお尻から頭の先へと突きあがるように動いた。それを眺めていて、ピアノという楽器のアンサンブルは、ゆびとゆびのレベルではなく、その上にゆびとうでのレベルがあり、そのさらに上にはうでとからだ(体幹)があると気づいた。そう、ピアニストはすべての曲を全身で弾いていたのだ!サロン・テッセラはこじんまりとしたビル内の天上の高い―6mほどある―会場なので、演奏者と客席がとても近い。それも手伝って、ピアニストがからだ丸ごとを用いて、ピアノをつうじバッハの魂とアンサンブルしているのがうまく感じ取れたのだと思う。

ぼくは怠惰なこともあって、彼女の演奏をすべて観ているわけではない。しかし、トッパンホールのような大きな会場での緊張感に満ちた瀬川さんの演奏ももちろん魅力的だが、どこかリラックスし、喜びにあふれたバッハの演奏を心ゆくまで味わえたことは貴重な体験で有難かった。

後半の最後に披露されたパルティータ第6番は、トッカータからジーグまで悲愴な情念に満ちた楽想で知られる。けれども、それを弾き続けるピアニストによって生きることの苦しみは、しだいに熱を帯びてあふれ出す歓喜へと変わっていった。それはもしかすると、彼の深い信仰に通じるものだったのかもしれない。バッハを弾けることの愉悦が演奏の進みゆきと共にほとばしっていく空間を、熱心な聴衆の方々と共有できた時間はとても喜びに満ちたものだった。