ぼくのTSUTAYA小史

mistyさんがnoteで 僕とTSUTAYAとの歴史(エッセイ)

という記事を書かれていて、それを楽しく読んだ。ぼくは一時期、博多名物のとんこつラーメンにハマっていたのだが、そのころは博多天神という四文字を目にするたびに、腹がぐうぅと鳴っていた。それはさておき、mistyさんのエッセイからは、ぼくにとって未踏の地である福岡・天神地区の賑わいが伝わってきて面白かったです。コロナショックの影響で、当分旅行には行けないでしょう。でも、こうやって友人の随想的な文章を読むことで、まだ見ぬ街へのささやかな旅に出られる。このことは捨てたものじゃないと思います。

さて、mistyさんが書かれていたように、ぼくもTSUTAYAと自分との関係について少し書いてみたい。ぼくが初めてTSUTAYAの存在を知ったのは、1993年である。そして、頻繁に利用するようになったのは、翌1994年からである。その店舗は、埼玉県の飯能(はんのう)にあった田中一誠堂(たなかいっせいどう)―この書店にも思い出があるのだが、今回そのエピソードは割愛する―という書店の2Fにあった。ぼくは、狭山市の自宅から飯能にあるルター系のミッションスクールに電車で通っていた。飯能駅から学校までの間には古本屋もあったが、中学生だったころ、学校帰りにはTSUTAYAに寄ってCDをレンタルし―といっても大量に借りられるわけではなく、熱心に吟味してすこしだけ借りた―、階下の書店の雑誌コーナーで少し立ち読みするのが半ば習慣だった。1994年からTSUTAYA飯能店(だったと思う。店名は正確ではないかもしれない)を利用するようになったのは訳があって、その年の5月ころからTOKYO-FMの「赤坂泰彦のミリオンンナイツ」というラジオ番組をきっかけに、YMOの音楽にハマるようになったのだ。

中学生は親からのわずかなおこづかいで娯楽に親しんでいる。ぼくが通っていた中学は私立だったので、もちろんお金持ちの子弟もいた。でもぼくは、中学2年生のころは、月に1500円~2000円くらいもらっていただけだと思う。だから、気に入ったミュージシャンがいても、国内版のCDを買うことはなかなかできなかった。当時新譜アルバム(国内盤)であれば定価で3000円したのだ。とてもではないけれど、気楽に手を出せるものではない。というわけで、当時のぼくは地元にある市立図書館のCDライブラリを毎週のように利用し、休日はFMラジオの音楽番組をラジカセでカセットテープに録音し、平日は飯能のTSUTAYAで厳選したCDをレンタルして、音楽生活をいとなんでいたのだ。

ご存じの方も多いと思うが、YMOは1983年に散開し、93年に"再生"した。2020年現在では考えられないが、93年の再生は期間限定であり、そのあとの活動は無いとファンは思っていた。そんな時期にYMO作品のリリース元であるアルファレコードは、YMOのリミックス作品を出しまくっていた。オールドファンからは"アルファ商法"と呼ばれ悪名高いが、当時のぼくにとっては、YMOの音楽が現代のクリエイターにどう解釈されるかという点に興味があったのは間違いない。彼らのオリジナルアルバムは乏しいこづかいを溜めて買い集める一方で(当時、CDでは1500-1800円くらいで再発されていたし、中古CDであればもっと安かった)、リミックス盤はレンタルで端から聴いていった。
当時リリースされたリミックスは『HI-TECH / NO CRIME』(1992年)が一番有名だと思うが、『YMO versus THE HUMAN LEAGUE』(ひどいアートワークだった)や、再生YMOのオリジナルアルバム『TECHNODON』(1993年)のリミックス盤『TECHNODON REMIXES I』『TECHNODON REMIXES II』も飯能のTSUTAYAで借りて聴いたのだ。
「これは面白いな!!」と心から感じられるものは少なかったけれど、YMOを再発見―小学校の運動会で「テクノポリス」や「ライディーン」は何度も聴いていたから―をすることを通して、ポピュラー音楽における電子音楽に対しての関心を高め、埼玉という"東京の郊外"に住んでいる中学生としては、とにかく刺激的なサウンドを求めていたのだと思う。電気グルーヴ細野晴臣の名曲「コズミック・サーフィン」をカバーしていることを知って、彼らの『UFO』(1991年)『VITAMIN』(1993年)『ORANGE』(1996年)なども飯能のTSUTAYAで借りて聴いた。電気グルーヴのユーモアのセンスは、YMOの洗練されたそれに比べると、なんとも庶民的かつ荒々しいもので、さほど気に入らなかったけれど、ハウスやテクノといったダンスミュージックに関心をもつきっかけになった。

 

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さて、時は流れて1999年4月。ぼくは国学院大学文学部に入学した。ここでまた通学路にあるTSUTAYAを利用することになる。国学院には、渋谷とたまプラーザというふたつのキャンパスがあり、ぼくが在学していたころは、1・2年生はたまプラーザで、3・4年生は渋谷で主に学ぶというしくみだった。といっても、サークル活動に参加していれば、渋谷に足を運ぶことも多い。というより、横浜市青葉区に所在するたまプラーザキャンパスは、渋谷駅から神奈川県大和市にある中央林間駅―すごい駅名ですよねーを結ぶ東急田園都市線たまプラーザ駅近くにあるので、渋谷経由でたまプラーザまで通う学生が多かったと思う。地方から上京してきた先輩には、田園都市線沿線に下宿している人もいた。そして、田園都市線沿線には当時、TSUTAYAの大規模な都市型店舗が2つあった。TSUTAYA渋谷店とTSUTAYA三軒茶屋店である。言うまでもなく、この両店舗はいまだ健在である。

飯能のTSUTAYAを卒業して、渋谷と三茶のTSUTAYAに足を踏み入れたのはいつだったか。記憶は定かではないが、おそらく1999年中に両店とも利用開始したのは間違いない。同じ学科に在籍していたクラスメイトのYくんがソウル・ミュージック好きでDJをやっていたのだが、彼からの影響でソウルやファンクを好んで聴くようになり、高校生時代から耽溺していたジャズについてもどんどんと際限なく関心が広がっていた。そんなときに、TSUTAYA―その駅チカな都市型大規模店舗の膨大なCD在庫―はぼくの心をトリコにした。もう長くなってきたので、とくに印象深いCDをそれぞれ1枚ずつ紹介して終わりにする。

渋谷TSUTAYAで借りて心に残っているのは、何といっても『フォー・フレッシュメン&5トロンボーンズ』です。ビーチボーイズのヴォーカルワークに大きな影響を与えたフォー・フレッシュメンの洗練されたハーモニーを、5人のトロンボーン奏者が支えるというとてもユニークな編成の素敵なアルバムです。1956年にリリースされた名盤なので、良かったら聴いてみてください。TSUTAYA三軒茶屋店で借りて心に残っているのは、細野晴臣さんのdaisyworld discsの第1作『Daisy World Tour』(1996年)。いわゆるコンピレーションアルバムで、彼のプライベートレーベルからアルバムを出すことになるミュージシャンたちのエレクトロニック・ミュージックが12トラック収められています。第1期daisyworld discsのカタログを出していたのはシナジー幾何学というベンチャー企業で残念ながら1998年に倒産し、現在は入手が難しいかもしれませんが、もし機会があればぜひ...!!

心に思い浮かぶまま、ぼくのTSUTAYAについての思い出を書き連ねてきたが、1980年生まれのぼくにとってのTSUTAYAはあくまでも音楽ソフトのレンタルショップである。とくに10代のあいだにはずいぶんと利用して、さまざまな素晴らしい音楽と出会う機会を与えてくれた。もちろんTSUTAYAは映像ソフトもレンタル・販売をしていたが、ぼくの当時の関心は極端に音楽に偏っていたので、そこで借りた映画やアニメの記憶はおぼろである(借りていなかったわけではない)。そしてすこしずつ思い出してきたのだが、大学生になるとぼくは学業の傍らアルバイトをするようになり、1-2年の頃はまだしも、3-4年生になると、TSUTAYAを利用する頻度はしだいに減っていった気がする。20代になると、自分で稼いだお金でCDやLPを買うことができるようになったのだ(中古を買うことが圧倒的に多かったけれど)。いつしか、TSUTAYAとは疎遠になってしまった。むろん、会社勤めをするようになっても、渋谷や三軒茶屋に行くことはあったけれど、TSUTAYAに寄ることはほとんど無くなった。2010-2011年ころ、渋谷のTSUTAYAに本のコーナーができて立ち寄り、ケネス・アンガーの『ハリウッド・バビロン』Ⅰ,Ⅱが再刊されていたので、それを買い求めたのが最後の記憶である。音楽ソフトを求めて通った場所で、何気なく本を買ったという行為が、TSUTAYAへの関心がきわめて薄くなったことを象徴しているような気が、いまのぼくにはするのだ。

みなさんも、TSUTAYAに―あるいは音楽ソフトのレンタルショップに―思い出はありますか?
もしよかったら、なにかエピソードを教えてください。