読書に特化された思念体になりたい

実は6月に温めていたアイデアがあって、それは10代の頃に大切にくりかえし聴いた音楽CDの思い出を絡めて、その曲目解説をすること。最初はクラフトワークの記事と決めていたのだが、それをどうやって書こうかと思いあぐねていたら6月が終わっていた。そして、もう7月も21日。こんなことを書くのは極度に陳腐過ぎてどうしようもないが、主観時間のスピードが信じられないほど速い(当方39歳10か月)。信じられない勢いで日々が過ぎてゆく!!恐ろしい勢いで梅雨明けして、今年の夏も酷暑にじりじり、じりじりと炙られるのだろうか。そしてニュースをにぎわす全国各地での大雨洪水土砂災害…。それらを幻視して、すでにうんざりしているのは決してぼくだけではあるまい。そういえば、きのうの晩、自室のベランダでたばこを吹かしていたら、網戸に羽化したばかりのセミがじっと止まっていた。それはほんのぴくりとも動かなかった。そしてきょう仕事から帰ってきたら、家の近くで複数のセミの鳴き声が聞こえた。つまり、もう―あきらめの気持ちでいっぱいだが―夏なんですね。

夏はニガテな季節である。乳幼児の頃から敏感肌の持ち主なので、まず強烈な紫外線が肌に合わないのである(比喩的な意味ではなく、文字通りの意味だ。長時間外にいると火膨れができる)。それから、汗っかきなのだ。おまけにいろいろと事情があってこの12年間で11kgも体重が増えた。つまり、夏はもう汗ばかりダラダラかいている。タオルハンカチ2枚とハンドタオル1本を所持して、移動中はほぼつねに汗を拭きながら歩かねばならない。ああ、夏よ去れ!いますぐ去ってくれてもまったく構わない!!という思いでぼくの胸はいっぱいである(落ち着け、まだ本格的にはやってきていない)。ぼくは、子供のころから静かで優しい秋が好きなのだ。この国の気象の道理では、蒸し暑く憂鬱で憂鬱でおかしくなりそうに熱射する夏が過ぎ去らねば、涼しくて読書に最適なあの素敵な秋は来てくれない。うう、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、ことしも夏をやり過ごさねばならないのか。ああ、つらい。つらいことよ。人生はつらい。ていうか、もうこの20年ほど残暑が厳しすぎてまともな秋を味わっていない気がするのだが。

 

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最近は週4日でアルバイトをしている。おまけに気温も気圧も激しく上下する。そしてぼくはもう若くはない中年のおっさんである。仕事で疲れて帰ってくると、夕食後ベッドで本を読みながら寝てしまうこともある。ああ、虚しい。虚しいのは読書の量と質が激減しているから。ぼくは今まで読むことで生きてきたのである。

よく考えるとここ数年の読みっぷりが常軌を逸していたのかもしれない。とにかく、なるべく働かず、貯金を切り崩し、哲学の入門書や研究書や論文を、関心の向くまま読む日々を送っていた。おかげで、2019年は貯金も尽きとんでもない貧乏生活を送っていたわけだが、振り返ってみると晴読雨読の日々は幸せだった。1日3-4時間は必ず読書に充てていた。1週間で21-28時間は読んでいたわけだ。もう今は休日でもがんばって2時間しか読めない。それだけ読書スキルは低下し、集中力ももたなくなっている。最近は無理せず1時間半くらいで切り上げることも多い。悲しいが仕方がない。それまで月に10日ほどしか働いていなかったところから毎週4日働いているわけだし、新しい職場だし、湿度は異常に高いし、新型コロナウィルスは流行っているし、この国の政治もひどいありさまだし、それよりも何よりもお金が無くては生きていかれない。だから、読書に特化された思念体へと進化して―そうすれば衣食住について心煩わせることもない。お金も要らない―、図書館のなかに棲みたい...。ぼくは疲れたからだと魂で、しばしばそういった夢想に耽るのである。