ホンネとタテマエ

utubo2003-04-29

朝起きたら父が、「おい、お前は落第したのか?留年したのか?」と部屋の扉を空けて
激しく詰問してきたのでいささか驚いた。おやじ、俺は今年なんとか4年になったよ、
落第したのは一昨年の話じゃんか…。父は、税金関係の書類を役所に提出する必要が
あって、ぼくに訊ねていたのだが、朝から唐突に「落第したのか?」などと訊かれると
驚くものだ。まだ夢の続きをみているのかと思ったくらいである。


父に訊ねられてぼくは気づいたのだけど、「留年」ということばは、実は限りなく
意識されることの少ない婉曲表現である。それはあなたにずっと想いを馳せていた相手に
いざ告白されて「ごめんね。あなたとはいつまでもよいお友達でいたいの」と返すような
ものである。今更だが「お友達でいたい」という表現は、今のままの関係をキープして
いきたいという一見ポジティヴなメッセージを発している様だけれど、むろんそれは建前に
過ぎなくて、自分がさして、あるいはまったく興味の抱けない相手をなるべく傷つけることなく
拒否したいというのが本音である。同様に「留年」の本質は、「落第」そのものであり「留年」
ということばのひびきはむしろ自己の意思でそこにとどまったかのような錯覚を与える。
「留年」は限りなく「お友達でいたい」という表現に似ているのだ。「留年」と言うにせよ、
「お友達でいたい」と言うにせよ、そのことばのどちらもが、どこか確実に怠惰なくせに
見栄っ張り、つまり利己的な欺瞞に満ちたあなたの姿を静かに照らし出すことだろう。


「落第」ということばは、「留年」と違い本質を突いている。そして、限りなく飾り気が無い。
つまり素のままのメッセージがそこにはある。先ほどの例えを持ち出せば、あなたに熱く熱く
胸を焦がしていた相手がもう限界だあ!と告白して「興味が無いから。理解して。お願い」と
簡潔に諭してやるようなものである。実にするどく研ぎ澄まされたことばのナイフが彼の
やらかいところに深深と突き刺さるは必定。しかしそれは決して飾っていないあなたの本音である。
ぼくだったらそのことばを聞いたとたん、偽りの無いあなたの真摯な態度に打ち震え、慟哭
するかもしれない。それは悲しみというよりも本質を突いたその的確なフレーズに感動すら
覚えるはずだからだ。そう興味のかけらもない相手をふるときはぜひ本当のことを言って欲しい。
「興味が無いから」!それこそが真の恋、人と人とのぶつかりあい、真的会話(チェンダ
フイファ)というものである。まごうことなきあなたの言霊がもし相手に届かなかったとしたら、
それは本当はあなたが彼に少しずつ心を奪われ始めているからかもしれない。というのは口から
でまかせだけど、「落第」と言うにせよ「興味が無いから」と言うにせよ、そのことばのどちらもが、
ウソをつくのがヘタでいつも損ばかりしている憎めないけれどおバカな、飾って言えば誠実、
貶めて言えば愚直なあなた自身なのである。


「落第」を「ダブる・ダブった」というふうにいう輩もいる。そのフレーズが、わりと
後ろめたさを感じずに軽く口に出せるのは、トランプや野球カードの収集を通じて人口に
膾炙した響きがあるからだろう。それはラブの告白に関するコミュニケーションにおいて
やんわりと発される「ごめん。わたしいま付き合っている人がいるから」「わたし…今、
好きな人がいるんだ…だからごめんね」に相当すると言えるだろう。わたしたちは今一度
ここでそのやんわりさに留意すべきである。多くの場合、この答えは「興味が無いから」
というのが本音であろう。しかし時として、「そんなに好きならわたしの心、奪ってみてよ!」
というひそかにして高らかなる恋の挑戦状であるかもしれないのだ。そう場合によっては
チャンスがあるとも限らないのだ。「ダブる」「わたし、今、好きな人がいるんだ」
という発言は、やはりそのどちらもがあなた自身が置かれている情況に対する無自覚さ、
どっちつかずさ、ある意味で最も曖昧な揺れ動くあなた自身を映し出しているのである。


夕食の後、母が部屋に入ってきてぼくに言った。「お父さん、あの書類に校長先生の判子を
もらわなくちゃいけないんだって。だから、あんたの留年を、留学か休学かどちらかにでき
ないものかって、ずっと悩んでるわよ」。親不孝者は思わず笑い転げてしまい、母に
お盆で頭をひっぱたかれた。こんなろくでなしは、ひっぱたかれて当然なのである。