働くことは苦痛か

同い年の長い付き合いの友人―親友と呼んでもよい―と話をしていて、「働くことは苦痛か」というテーマになった。Twitterでとあるアカウントが発言していたのがきっかけで、彼が共有したツイートの要旨はこんな感じである。「どんな仕事であってもしたくない。遊んでいたい。小説を書いていたい」。ぼくもその気持ちは理解できるのだが、年々歳を重ねるにつれて、共感することはむずかしくなっている。このアカウントの中の人はライターのような感じで物を書いたり、自作の小説をWEB上で販売したりしているが、ざっとツイートを見た限りでは会社勤めもしているようで、「無職は最高だ」というツイートもあった。まあ、うなるほどの大金があれば、無職は最高だが、赤貧の無職は最低最悪だよな、とぼくは考える。また、大金があっても浪費すれば金は無くなるし、無職であってもみずからを律する意志と気力がなければ、単に自堕落に物憂げな日々を過ごすことになる。きっとこのツイート主(ぬし)はぼくより10-15歳くらい若いのだろう。彼はまだ人が老いることについて何も知らないのだと思ってしまった。

ぼくは1980年生まれなので、ことし40歳になる。40歳はもはや若くはない、しかし老いているともいえない。端的に中年である。容貌は20年前とは様変わりしている。肌艶も冴えないし、腹部はとみにわがままである。疲れると、からだのどこかが痛み出す。無理をすると、翌日に悪影響する。そういった日々のなかで感じるのは、一定の生活のリズムを守ることの大切さである。若いうちは無職で家で一年中ゴロゴロしていても、さほど気力体力は落ちないし、動き出せばわりとすぐに元の状態を取り戻せるだろう。しかし、歳をとるとそうはいかないのだ。一年中家の中で寝そべっていれば、気力体力の低下が著しく、いざ動きたいと思ってもからだが言うことを聞かない。そして経験から申し上げるのだが、からだの調子がおかしいと精神もたいてい弱る。「ああ、お金が無いから働こう...」と思っても、そういった理由から底辺のアルバイトでさえできないところまで落ち込んでしまうのである。若い人にもいろいろいる。病気やケガや家庭の問題で苦労している場合もあるから一概にはいえないが、世間の複雑さと老いや病の恐ろしさについてはどうしても知識や経験が不足する。それは裏を返せば、いくらでもこの世界についてあらたに知ることができるし、おのれを豊かにできる蓋然性が高いということなのだが、ごく聡明ないちぶの若者しか、そのことには気づかないのではないだろうか。

ぼくは30代の10年間をほとんど病臥して暮らした。厳密にいうと、病気を抱えながらサラリーマンをしていた時期が4年ほどあり、そのあと2年間は無職、そしてアルバイトや派遣社員をして実家に戻って、老いた親のすねをかじりながら日々を送っている。まことに不甲斐ないけれども、ぼくの30代はそんな感じだった。闘病しながら、恋人と結婚し、共同生活し、それも破綻し離婚し、いま振り返るととんでもない10年で、良い出来事にせよ悪い出来事にせよ盛沢山過ぎたように思う。ぼくは若い人たちに説教をしたいわけではない。だって自分だってゴロゴロ遊んで暮らしたいと日頃から思っているからだ。しかし、この歳になってつくづく感じるのは、人間はある程度の頻度で社会と接することが大切だということだ。それが多くの場合は、仕事(労働)を通じて、ということになる。世の中との接点が無いと、人は極端な思考に振れやすい。これは精神面でも情緒面でもあまりよくないことなのだ。もちろん仕事では理不尽なこともある。でもたまには嬉しいこともある。そういったことから世の中のありようが少しずつ伝わってくる。その通路をできるだけ開放しておくことが、多くの人にとっては必要なのである。

それから先にも述べたように、歳をとるとからだが言うことを聞かなくなってくる。これは自戒の念を充分にこめて言うのだが、からだは動かしておいた方がいい。激しい運動でなくても、できるだけ継続的にからだを動かすことは、たいていの人が送ることになる約80年ほどの人生において非常に肝要なのだ。いざ、働こうと思っても働けない、体力がない、気力がない、お金がない。そうなると人は追い込まれる。どうしても辛くなったら自殺すればいい、という考えもあるだろう。しかし、自殺するにもある程度の体力や気力が必要なのだ。重篤な病人や大けがをしている人は自殺をすることすら困難であることはあまり知られていないかもしれない。無職であっても、そして働きたくないから遊んでいるのだとしても、からだを動かしておくことはとても大切だ。いずれ事故や大病で死なななければ、誰も老いる。そのとき、1日でも長く自分の足で歩けたり、トイレに行ったり、風呂に入れたらどれだけ心が救われるだろうか。若い時分には、なかなかこのことの重みと幸せが分からないとは思う。しかし、これは人間にとっての真理なのだ。自由に動けるからだと心をできるだけ維持すること、それに伴って必要なお金を稼ぐこと(大儲けする必要は別にないし、大金が欲しい人は貪欲に生きればよいが)は実は人生においてより大きな苦痛を防止するための、小さな苦痛なのである。

働くことの苦痛はもちろんある。それはときに彼/彼女の肉体をぼろぼろにし、精神を蝕む。とくに長時間拘束して非生産的に労働する悪習があるこの国のしくみは少しずつでも変えていかなければならないだろう。しかし、今後も状況が不透明ななかであっても、何らかの方法で賃金を得ていかなければ、働く/働かないという選択肢を選ぶ蓋然性すらゼロになってしまう。しつこいようだが、人生においてより大きな苦痛を防止するために小さな苦痛が続くこと、それが働き続けることである。自分の持ち時間を差し出して作業をすることを通じて得られるお金であったり、また継続的に働くことで得られる社会的信用だったり、職場で生じる社会的な関係によって、あなたが護られたり、救われたりする可能性は思っている以上に上がるのである。働くことによってもたらされる苦痛について考察し、それと折り合いをつけつつ、より多くの若い人たちに比較的安定し、ときにささやかな幸福を感じられる暮らしを送ってほしいと、勝手ながら願っている。

やはりちょっと説教臭くなってしまった。しかし"真理"がここにある。できるだけ言葉を尽くしたのだが、疑問点や質問などがあればコメントを頂ければと思います。読んでくださってありがとうございました☺