「戦争」で死ぬ「ことば」(2003.12.1 記)



卒業論文を書き終えようとしていたおととい土曜日、バイトだったので、朝、
納豆を食べながらラジオを聴いていたのだが、ラジオ第一放送が知らせるには
イラクで外務省職員と見られる二人の男性が何者かに殺害された」らしいという。
ぼくは、この卒論を書きながら、実に「戦争」のことばかり考えていたのだ、実は。


運動であると呼ばれることの多い、ダダというムーブメントが主に1910年代の欧州で
起こった。ちょうどその頃世界は第一次世界大戦で、いろんなやつらが「中立」都市
チューリヒに集まって、わいわい騒いでいた。当時のチューリヒにはレーニンや、
ジェイムズ・ジョイスなんかもいて、たしかレーニンはパリに渡ってその後
ロシアへ帰って革命してしまう。ダダの良く知られた命題に「ダダはなにもいみしない」
というのがあるのだが、これが深い厭戦の精神から生まれたものではないか、
というのが、ぼくが卒論で述べていることのひとつで、これはまったくぼくの
オリジナルではないが、「戦争」の犯罪性というのは、単に、爆弾やミサイルや
銃弾や地雷で人間を殺傷させることだけではなくて、その人間の「ことば」を
封じてしまうというところにあるのだ。そういった点から言えば、アメリカも、日本も、アルカイーダも等しく、
人間の「ことば」を奪っている側面があると言えよう。殺し合いに「正義」も「悪」も無いのだ。
「正義」というのは、常に勝者がその悪趣味な精神に基づいて謳っているだけのガラクタである。


きょうも街をあるけば、どの商店もにぎやかで、コンビニには食べ物や雑貨が
豊かに並び、恋人たちは恋を語らい、独居老人はひとり咳をし、幼稚園児は
友達とハム太郎の話をしているだろう。まあ、でもさ。これってやっぱりアメリカの
お陰じゃん、って思うわけだ。もし、日本とアメリカの強い結びつきが無くなったら、
あの北朝鮮という国がなにをしてくるか、わかったもんじゃないし。
日本は不況だけど、餓死して死ぬ人間がほぼいないという状況にある。けど、まあ、
これで「戦争」が起きたりしたらどうなるかなあ、とぼくは暇なとき時折考えているのだ。
東京でテロが起きたら、経済のみならず、あらゆる人間活動が停滞萎縮し、
「夷敵討つべし」の精神になっていくのだろうか。


日本人はうまく「自衛隊」の定義づけができなくて、彼らに対する名誉というのも
至極曖昧であることは言うまでも無い。小泉首相は最近の発言で「自衛隊
日本国軍にする」というようなことを言っている通り、「自衛隊の定義づけを
きちんとすべきだ」という目論見があるみたいだ(当然だ)。だけどあのブッシュが
代表するホワイトハウスに「とりあえず出してよ、自衛隊!」といわれて、
「ウンウン…わかってる、わかってる、けどちょっと待ってね」と言ってるのだ。
自衛隊イラクに行けば必ず彼らのうち何人かは死ぬだろうし、日本国内に
潜伏しているテロ組織がテロを敢行する可能性は高い。いや、ホントに起こるんじゃないかな。
巻き込まれて、死にたくないなあ。


アメリカの欲望を利用して、日本国に形而上的にも、形而下的にもきちんとした「軍」を
備えるべきだ、というタカ派的な欲望があればこそ、曲がりなりにも民主主義
という制度を採っているのだから、もうちょっと議論すべきだ。
外交官二人が亡くなって、それでビビって出せないんだご免、世論も沸騰してるしさ、
なんてアメリカに言ったらますます日本は舐められるだろうし、はっきり言って「和の精神」で
ムニャムニャいろいろ決められながら「戦場」に送り出される「自衛隊員」は良い迷惑である。
出されなくたって迷惑する。「生きるか死ぬか」って話なんだから。


だいたい、ぼくなんて「自衛」隊が、「外」に出ちゃったら「外衛隊」じゃねえかよ、と
そこから突っ込み始めてしまうのだが、そういやかの合衆国の軍隊というのは
実に「外衛隊」であるわけで、やっぱり「外衛隊」作ったらさ、「外」に行きたく
なるんじゃねえのーと思うわけである。やっぱ議論が必要だよ。マジで「国益
を考えるんだったら。はっきりいって、このまま出したら「国」が揺らぐと思うんだよねえ。
自民党の連中が、自分の利益や名誉ってものをもっと真剣に考えているんだったら、
ゼッタイ議論しまくる必要があるはず。と、まあ、ちょっとそんなことを言いたいです。