連載 卒業論文 予告編
恥知らずにも2003年12月に提出した卒業論文を連載形式で掲載していこうというと思いついた。とりあえず下に目次+要約を載せておくのでご笑覧ください。表題は「ふたりのダダイスト〜フーゴー・バルとトリスタン・ツァラ〜」DEATH!
目次
謝辞
要約
資料
第1章 ことばを殺す装置としての「戦争」
1-1ことばがことばを「殺す」方法
1-2ことばがことばを「殺す」構造
1-3ことばがことばを「殺す」戦争
第2章 フーゴ・バルについて
2-1 バルの人生
2-2 バルと戦争
2-3 作品「KARAWANE」の検討
第3章 トリスタン・ツァラについて
3-1 ツァラの人生
3-2 ツァラと戦争
3-3 記録「バレス裁判」の検討
第4章 ことばを殺すことばに支配されていかに生きるか
4-1 ダダの批評性、先駆性について
4-2 ことばの出現によって「殺され」たなにか
4-3 ダダから学んだもの
第5章 終わりに
参考文献
要約
第1章 ことばを殺す装置としての戦争
この章では、トリスタン・ツァラとフーゴ・バルがダダとして生きた時代背景を考える。あらゆる表現が、その時代から無縁であることは考えられない。というのも、諸芸術があらゆる人間活動の一部に過ぎないことを考えれば自明の理である。ダダの背景としての第一次世界大戦を通して、「戦争」ということばの本質を検討する。
第2章 フーゴ・バルについて
この章では、チューリヒ・ダダの家主的存在であった、バルについて考える。詩人、のちには批評家として、ことばを信じた彼の生き様を、バイオグラフィ、戦争とのかかわり、彼のダダ後期作品のうち、音響詩「KARAWANE」を通して検討する。
第3章 トリスタン・ツァラについて
この章では、チューリヒ・ダダのマスコット・キャラクターといってもよい、ツァラについて考える。とくに、バイオグラフィ、戦争とのかかわり、デモンストレーションとして名高いバレス裁判を鑑み、彼の生き様を検討する。
第4章 ことばを殺すことばに支配されていかに生きるか
この章では、ダダの言語じたいに対する先駆的批評性、および問題意識を、ソシュールやフーコーといった、言語および言語活動を真摯に追及した先人の知恵を拝借して論証する。
第5章 終わりに
ふたりのダダイストがどんな人物であったか、また、拙いながらも、こんにちの世界におけるダダのもたらす有効性が何であるかを検討し、判断を述べ終章とする。