第1章 ことばを殺す装置としての戦争 1-1 ことばがことばを「殺す」方法


ぼくは政治を恐れ、そこから離れようとしてきた。論難し、追い詰める。憎しみを煽り、呪詛の言葉を吐く。そこでいちばん虐げられているのは言葉なのだった。
だが、そうだろうか。
ぼくにはいまこそはっきりとわかる。
ぼくたちがいるのは戦場なのだ。ここでも政治と同じように、言葉という弾丸が飛び交っている。
この弾丸は、現実の弾丸と同じように、言葉という弾丸が飛び交っている。この弾丸は、現実の
弾丸と同じように、人を殺し、傷つける。なのに、人はそこが安らぎの場所であるように
いい立てるのだ


高橋源一郎日本文学盛衰史p.399、2001年、講談社


 「ダダは何も意味しない」と、トリスタン・ツァラは言った。なぜ彼はそんなことを言ったのだろう、彼らはどんな気持ちで「ダダ」したのだろうか、ということを考えてみたい。
トリスタン・ツァラたちがダダを生きた時代には戦争があった。第一次世界大戦だ。第一次世界大戦は1914年から1918年にかけて行われた欧州における戦争である。それは三国同盟(ドイツ、オーストリア、イタリア)と三国協商(イギリス、フランス、ロシア)という利害関係を異にするグループによる、国際的な戦争であった。


 有史以来、人は、無数の戦争を行っている。そして、そこではさまざまなプロパガンダが行われてきた。プロパガンダは、大量のことばであらわされるある主張を、べつの文脈に沿った大量のことばでやりこめよう、封殺しようとする大がかりな試みであり、またことばでものごとを考え、判断する人間に、ことばによる揺さぶりをかけて、戦いを有利に運ぼうとする方法でもある。第一次世界大戦も、その例外ではなく、多くの戦時宣伝が行われた。宣伝とは、何か真実や事実を伝えようとすることばではなく、誰かに何らかの影響を与えようとすることが主な目的となっていることばであり、ことば以外の表現をも伴う行為である。
英・オックスフォード大学に学んだのち、第二次大戦下の日本陸軍参謀本部で情報分析活動にあたっていた池田徳真は次のように述べている。



ヨーロッパに住んでみると、大国も小国も必死になって生き残ることに苦心している様子がよくわかる。ことに小国は、隣国のことばを勉強して各国の新聞を読み、彼らが何を考えているかについてとても敏感である。生き残るためには相手の心を深く読み、その本心を知らなければならないからである


池田徳真『プロパガンダ戦史』p164、1981年、中央公論社


 人間はひとりで生きていくことが難しいから、徒党を組む。徒党を組む集団が世界にひとつであればよいのかもしれないが、そういうわけにはいかない。そこで利害関係を異にしたグループがいくつもできる。国家とは、とりあえず利害関係を同じくするグループの集合体ということができるだろう。
 そして人間は、より豊かになりたいと望む生き物である。国家がより豊かになりたいと望むとき、それはしばしば他の場所から豊かさを奪い取ることになる。他の場所が、他の国家を意味することが多いので、豊かさを手にいれるとき、その方法は、モノとカネとのやりとり、すなわち国家間の貿易というかたちで、あらわれる場合が多い。それは、格差があるにせよ、互いに物を手に入れていくことになるので、互いに物を壊したり、互いに人を大量に殺したりする戦争よりはずいぶん穏やかに見えるが、どうすれば得をするか損をするかと終始考えて、それを実践しなければならない点では、戦争と構造的に似ている。いかに功利的にものごとをすすめるか、という点において国際貿易も、国家間の戦争も、戦略的な言説の応酬に違いないからである。

 戦争中に行われるプロパガンダが、緻密であれ、杜撰であれ、すべて戦略的な言説であるのは明白である。しかし、わたしはそもそも、ことば自体が戦略性を帯びているのではないか、と考えたい。なぜなら、ひとはものを考えて、得をしようとして、ことばを発するからである。ひとが発話して、損をするのは、戦略の失敗であるとは言えないだろうか。
 戦略的である、というのは、ものごとをさまざまな視点からよく検討し、得をしようとするさまをいうと考えられる。ゆえに、その検討の度合いにいくら差があったとしても、発話されることばが考えられているという時点で、ひとの言語活動はほとんど戦略的なのである。プロパガンダが、磨きあげられた大振りの日本刀であれば、日常のことばは、切れ味の悪い、片刃のナイフのようなものかもしれない。しかし、それはことばで意味を切り取り、そして他者に提示する、という部分ではまったく同じ仕組みを有している。

 戦場では、ひとが爆弾や銃を用いてひとを切り裂くように、ひとは生きていく上で、ことばでことばを切り裂き、またことばでことばを切り裂かれるのを常としている。ツァラやバルについて考える前に、戦争によって、いかにことばがことばを切り裂き、無効化するのはいかなるしくみによるものか、ということについて考えてみたい。

(1-2につづく)