第2章 フーゴ・バルについて 2-2バルと戦争




 ベルリン、1914年11月。わたしはいまクロポトキンバクーニン、メレジコフスキーを読んでいる。国境の前線に二週間いた。その間ヒューズで最初の戦死者たちを見た。砲撃の跡も生々しいマノンヴィエールの堡塁で、瓦礫のなかにずたずたに引き裂かれたラブレーを見かけた。それからこちらへ、ベルリンに向かったのだ。わたしの言うことがわかってもらえるといいのだが。
 戦争で今突然現れてきたものは何かというと、それは機械仕掛の全貌であり、悪魔そのものなのだ。理想的な文句はピンで留められた小さなレッテルにすぎない。最後の地下要塞のなかまで、何もかも一切がぐらついている。


フーゴ・バル 『時代からの逃走』 p.21、1975年、みすず書房


 バルは、1914年11月、28歳にして、自由志願で、西部戦線へ赴いた。エリック・ボブズボームは、西部戦線について、次のように述べている。



 1914年以前に大人になった人々には、1914年の前と後との間の対照は劇的なものだった。彼らの多く―この20世紀史を書いている歴史家である私の両親を含め、ともかく中央ヨーロッパの人々―は、過去との連続性がなくなってしまったと主張するほどだった。「平和」とは「1914年以前」を意味しており、それ以後の時代は、もはや平和の名に値しなかった(p.32)


 すべては1914年に変わった。第一次世界大戦にはすべての列強が参加し、スペイン、オランダ、スカンジナヴィア三国、スイスを除くすべてのヨーロッパ諸国が参加した(p.34)


 要するに、1914年が大量殺戮の時代の開幕を告げたのであった(Singer,1972,pp.66,131)(p.35)


 これが『西部戦線』だった。それは、戦争の歴史の中で、おそらく以前にはけっしてなかったような虐殺の装置となった。数百万の兵士が塹壕の中で、ねずみ、しらみとともにその両者と同じように暮らしながら、砂嚢を積み上げた胸壁を間にして互いに向かい合った(p.37)


 1916年(二月から七月にかけて)にドイツ軍がヴェルダンで戦線の突破を試みたのは、200万人の会戦であり、死傷者は100万であった。それは失敗に終わった(p.37)


 アメリカの戦死者数は一見したところ小さいが(11万6千、それにたいしてフランスは160万、イギリスは80万に近く、ドイツは180万)、それは西部戦線アメリカ兵が戦ったのはこの戦線だけだった‐がいかに残酷であったかをまざまざと示している(p.38)


エリック・ボブズボーム『20世紀 極端な時代』上巻、三省堂


 バルの自伝のタイトルは、くしくも『時代からの逃走』(DIE FLUGHT AUS DER ZEIT)だが、わたしにはそれが彼の生きた時代(第一次世界大戦)が発したきわめて暴力的なことばからの逃走であったようにしか思えない。その時代に発されることばから逃れるということは、同時に、その時代に強要される意味からの逃避でもある。彼は、「戦争」という意味から逃れようとした。すなわち、それは彼がその時代から降りることを意味した。ゆえに、彼は中立国であるスイスへと移らざるを得なかったのである。

 チューリヒという場所はバルの対峙する「戦争」の中にあったが、しかし、スイスという国の「中立」というロジックによって、時代から降りていた。あるいは降りていたように見せかけていたというべきか。しかし、バルがその「中立」に亡命し、なおかつ「中立」という嘘に気づいていたかいなかったか、ということはたいした問題ではない。




 11月25日・・・・・・どの程度理性をもてたらいいかの実証は、無意識にまかすべきだ。意識的なもくろみよりは本能に従うべきだ・・・・・・これまで大変興味のあった魔性(デモニー)も、今では冴えない、味気ないものになっている。しらぬまに世界中がデーモンのようになってしまったのだ。魔性によっては、もはやダンディと日常性との区別もつけられない。これから先もなお区別を保とうとすれば、きっと聖者になるほかないだろう。


フーゴ・バル 『時代からの逃走』p.24、1975年、みすず書房


 ここに窺えるようなバルの繊細さは果たして「戦争」が代表することばの意味から逃げおおせただろうか。否。彼は「戦争」が強要する意味から逃げ出しただけで、ことばそのものからは逃れられるはずもなかった。彼じしんは、「戦争」という意味から逃れられればよかったに違いない。そこで彼はやがて「ビザンチンキリスト教研究」に没頭した。「戦争」も「キリスト教」も、壮大なイデオロギーであることに変わりはない。



 土肥美夫はバルのダダ運動を「総合と超越の場を切り開かんとするカリスマ的アナキズムのラディカルな試行」(フーゴ・バル『時代からの逃走』 p.291 1975年、みすず書房)であったと評しているが、少々おおげさであるように感じる。少々おおげさ、というのはバルが、芸術を愛する争いごとが嫌いなペシミストであったのではないか、という視点からの批判である。本当にそうであったように感じなくもない部分は、とにもかくにも、彼がことばに意味を求め、「禁欲と極貧」のうちに亡くなった、と伝えられる「事実」によってである。  貧しさのうちに人生を降りることを、きわめてささやかだが一身を賭した「戦争」(欺瞞に満ちたことば)への抵抗である、と読むことができれば、彼はきわめて「ラディカル」な死に方をした、ということができるだろう。
 どちらにせよ、バルの限りない真摯さは、どちらの視点においても、伝わってくる。彼じしんから感じられる、真摯さに殉じるロマンチシズムもあるにはあるが、それを批判しても、得るものはあまり無い。そのような批判は、彼の文学的態度、すなわち彼の生を否定する作業につながるからである。彼の不器用な生き方に、わたしは一定のシンパシーを感じる。


(2-3へつづく)