7/12 難しい音楽@京都精華大学


  • 概要

講義は、菊地さん→大友さんの順で。
菊地さんのテーマは「難しい音楽ってどんなことか?」で、いろんな音楽を楽譜を身ながらCDで聴いて、「いまのは難しいと思いますか?」みたいな流れで講義してました。
結論から言えば、現代音楽で譜面が第三者に読みとり不可能になった時点で、難易度の面からみた難しさはすでに意味不明になっている(恣意的にわからなくされてるから ex. Pierre Boulez)んですが、
ティポグラフィカは、第三者が読みとり可能な状態で極限まで難しい音楽をやろうかなーというのが1つのテーマでした。でも難しくしすぎて売れませんでした。だそうです(笑) 
配布された楽譜はバッハのチェンバロ協奏曲、boulezのピアノソナタ、はだかのランチ、重力の虹など。
おかしかったのは板書してみて「うわー書けない」ってぐちゃぐちゃ書いてたのかなー(3回目で受けなくなってました)。
最後にデートコースの「構造1(現代呪術の構造)」をかけて、リズム分解をしてくださってたのがよかったですー。
「構造1」は4分の5拍子ベース≒4分の4拍子リズムで出来てます、みたいな(譜面付き)。全部やってほしかったです。

まず、問題をとても単純化します。きちんと考えても答えが出ない問題を、私たちは「難しい問題」とは呼ばず、悪問と呼びますよね。
そして、きちんと思考や手順を積み重ねてゆけば最終的には解ける問題、これを私たちは「難問」と呼びますよね。
前者がdelicateな難しさ、後者がdifficult、hardな難しさと考えてみてください。
さて、大江光の音楽ですが、批評することが難しい音楽、ではなく、コメントすることが難しい音楽、と云い換えてみてください。
その難しさというのは、彼が障害者だったりノーベル文学賞受賞者の息子だったりという、delicate(びみょー)さに結び付いている。
つまり、その「難しさ」は、きちんと考えたり、何らかの訓練を積んでも解消(クリア)されない「難しさ」ですよね。或いは、
現代音楽。講義ではその代表例として、楽譜の指示通りには弾くことができない、ピエール・ブーレーズのピアノ・ソナタが挙げられましたが、
難しさのための難しさを追求し、最後にはドグマの袋小路にはまり込んだ現代音楽の難しさもまた、「難問」ではなく「悪問」のそれです。
そして、やはり「難しい」と云われる菊地氏の音楽ですが、それは大江光ブーレーズ的な「難しい音楽」とは別の「難しい音楽」なわけです。
つまり、がんがん踊ることや、あの、時に音楽よりも面白すぎるテクストを読んだりすることで、菊地氏の音楽は、どんどんその「難しさ」が解消されていきますよね。
つまり、最後には難しさが消えてしまう音楽なわけです。
講義の最後で菊地氏は「DCPRGは難しさの屍体」であると仰有ったのですが、それは、このプロセスの結果を指しているのだと考えます。


引用元:ASD:BBS菊地成孔Part9