米沢嘉博 / 藤子不二雄論(河出書房新社)



確かに力作(米沢の文章はところどころ日本語がおかしいのが気になる)。藤子不二雄の作品の変遷を概観するには
最適な一冊になると思う。しかしきわめて概論的で、筆者も巻末で言っているが「まずは一冊目だ」という感じ。


藤子不二雄がなぜ論じられてこなかったか」というのは、彼らがふたりいて、しかもその活躍したフィールドが拡散しすぎていることも
ひとつの原因ではないかとぼくは思っている。作品の多寡はあるにせよ、幼年誌、少年誌、青年誌、女性誌、SF専門誌と発表の舞台は広い。
彼らの精神的導師であった手塚治虫の批評にしても、やはり知名度の高い作品に集中するし(それはむろん成功作の魅力や商業批評としての
制約があるのだろうが)通時的な作品論や充実した作家論は少ない(そういった点で、夏目房之介の一連の手塚仕事は興味深いし価値がある)。


そもそもマンガ評論の方法じたいが、まだ若いもので、加えてマンガの場合、その文法ともいえるコマの内の、画とフキダシ等の構造を
必要とあらば視覚化して、論じなければならないのだが、本論でも図版の引用がかなり少ないように(藤子の場合、コンビ解消後の
作品への権利問題も絡んでくるようだが)マンガ作品の「引用」が、文藝評論における「引用」のように簡単にできないということも大きな
問題としてあるのだ。米沢の推量や主観の多い印象批評な文体もさることながら、そういったマンガ評論がその前提に抱えている制約も
読者としては心に留めておきたい。細かく内容に触れて行きたいのだが、とりあえず「ウンチクンな藤子ファンは読め」とだけ言っておこう。


最後に書籍としての問題点をひとつ。管見に拠れば、呉智英が『現代マンガの全体像』の作家論で藤子不二雄について軽く触れているが
これは文藝論の方法で、文体=描線への短い批評と安孫子毛沢東』の短い分析だが、簡潔で的確だ。米沢も論じるにあたって当然目を通していそうなものだが、
巻末に参考文献の記載がまったくない。仮にも「論」と謳っている以上、これでは片手落ちであると咎められてもしかたないだろう。
作品年表もいいが、参考文献の一覧を載せるべき。これは論の巧拙にかかわらず、読者に対する最低限のマナーだと思うのだが。