こうの史代 / 夕凪の街 桜の国 (双葉社)



素晴らしい。まろんさんが長文を書かれた理由もこれで分かったように思う。
読後、時系列と事件を実に整理したくなるのだ。それだけ構成と物語が緻密で複雑であるともいえるだろう。コマ一つ一つを軽く読み流せないのだ。


竹熊健太郎夏目房之助といった文筆家たちが誉めるのも分かる。
丁寧なコマ割りと、何度も推敲されたと思しき無駄のないネーム。こういっては何だが、これは実に「文学」的な作品なのである。
「文学」的であるという形容を安易にマンガに対して使うのは好ましくないと思うが、
「文学」が人間の営為から、さまざまな美醜を掬い出し提示するものであれば、この作品は正にその点において「文学」的であると言えよう。


このマンガの言うまでもないテーマは「原爆を忘れないでいよう」である。
それが戦後の生活を通して、すなわち教育的な押しつけがましさを排して、おだやかに描かれているのだ。
押しつけがましくなく、「原爆」が描けている。これは特筆に値する。
「原爆」が描かれている、と聞いて、抵抗を感じる人は少なくないと思う。
だが、こうのの素晴らしいところは「原爆」を通して、人間の持つ/持たされる「暴力」を見据えているところだ。
「原爆」という事件がもたらしたのは大量の死者と阿鼻叫喚だけではなく、その後の世界へ生きた人々の「何度夕凪が終わっても」終わらない「暴力」の連鎖でもある。



嬉しい?


十年経ったけど
原爆を落とした人はわたしを見て
「やった! またひとり殺せた」
とちゃんと思うてくれとる?


(『夕凪の街』三十三ページ)


こんなネームができてしまうという時点で、わたしは降参してしまう。「戦争」という「暴力」へのおそろしく重要な問いであり、かつ実直な批判だからだ。


第一次大戦以降、近代=現代の戦争は大量殺戮戦である。そこでは、「やった! またひとり殺せた」と思って互いに殺し合うわけではない。
戦う人々は、人間をゴミかぼろ屑であるかのように大量に「排除」し、敵方に甚大な「損害」を与えようと、力の限り努力する。
この激烈な茶番劇においては、死者ひとりひとりの無念も何もあるものとは見なされない。まず、死人は口をきくことができないからである。


自分の生(死)の価値が「原爆」という暴力に破壊された為、ぼんやりと判断できず、
しかし、死に行く自分の「死」(すなわち今までの生)にいくばくかの価値を見出だそうとする時、答えてくれるものは誰もいない。
ひとりひとりに向かって丁寧にその「死」にいたらしめる理由を説くことをしない「暴力」。
敷衍すればそれは、必ずしも「原爆」に限らず、わたしたちの日常に偏在する「暴力」「生きる(死ぬ)苦しみ」そのものであるように思える。
「原爆」を通して「暴力」のありかを、たおやかに描いたこうのにカンパイである。