村上春樹 / アフターダーク (講談社)



村上春樹の小説における作風が近年はっきりと変化を示したのは、ノンフィクション作品として発表された『アンダーグラウンド』(1997年発表)以降である。村上は、実際に地下鉄サリン事件の被害者に会い、綿密な取材を行った。この『アンダーグラウンド』が、わたしが現在一番好きな彼の作品である。そこには現実に起きた事件に動機付けられた筆者の、それまでの小説からは読むことの出来なかった側面が垣間見られたからだ。おそらく『アンダーグラウンド』を通して、彼は今まで以上に「物語」とは何か、「虚構」とは何か、ということを考えたに違いない。


筆者は、'79年のデビュー以降、その小説において「生と死」(「こちら」と「あちら」、「地上」と「井戸」、「世界」と「異界」etc...)についての問題意識を主軸に、ひとがその人生においてすでに失われたものごとに対して抱く懐旧の情や諦念を絡めて、乾いた印象(当時)の文体によって「生きることのセンチメンタル」を読者に提示してきた。が、『アンダーグラウンド』と、その続篇『約束された場所で』発表の後、村上が発表する小説には、以前の作品から共通する「生と死」についての問題意識とともに、小説を通して何らかの「希望」を提示しようとする姿勢が見られるようになってきた。神戸の地震を動機としてかかれた連作「地震のあとで」(『神の子どもたちはみな踊る』収録)や、長篇『海辺のカフカ』にそれは顕著である。


本作『アフターダーク』では、そのタイトルが示唆するように、(夜の)闇の後に来るべき(朝の)「光」(端的に言えばひとが生きるうえでの「希望」)を主題として、浅井マリとタカハシ・テツヤというふたりの人物を用いて物語が進められる。彼らと対になって登場するのが、マリの姉であるとして紹介される浅井エリ(深く長い眠りに落ちている)と支那人の娼婦に理不尽な「暴力」をふるった白川という男である。読み進めるにつれてマリ−タカハシのラインとエリ−シラカワのラインは別の世界の住人であるように書かれていながら、彼らはそのお互いを映し出す鏡であるように感じられてくる。端的に言えば、マリとタカハシは迷いつつその不確かな壁に沿って歩く「生/性」的な存在である。エリと白川はその存在感の不確かさと静的な描写から「死/詩」的な存在である。この作品を読んでわたしは強い感銘を受けなかった。最も秀逸なのはそのタイトルであると思う。「アフターダーク」というタイトルによって、朝夕繰り返される「日の出」と「日没」が、ひとの生における「生と死」「希望と絶望」の隠喩として的確かつ簡潔に記されているからである。


村上の作品を読むにあたって、その「生きることと死ぬこと」や「生きることに対してタフになっていかなければならない」というような問題/主張を毎回確認するのもそれはそれで悪くないのだが、今回わたしがこの作品を読んで一番強く心に残ったのは、狂言まわしとしてマリに語りかけるコオロギ(というあだ名で呼ばれている女)の以下の台詞である。



彼女は言う、「それで思うんやけどね、人間ゆうのは、記憶を燃料にして生きていくものなんやないのかな。その記憶が現実的に大事なものかどうかなんて、生命の維持にとってはべつにどうでもええことみたい。ただの燃料やねん。新聞の広告ちらしやろうが、哲学書やろうが、エッチなグラビアやろうが、一万円札の束やろうが、火にくべるときはみんなただの紙きれでしょ。火の方は『おお、これはカントや』とか『これは読売新聞の夕刊か』とか『ええおっぱいしとるな』とか考えながら燃えてるわけやないよね。火にしてみたら、どれもただの紙切れに過ぎへん。それとおんなじなんや。大事な記憶も、それほど大事やない記憶も、ぜんぜん役に立たんような記憶も、みんな分け隔てなくただの燃料」
コオロギは一人で肯く。そして話を続ける。
「それでね、もしそういう燃料が私になかったとしたら、もし記憶の引き出しみたいなものが自分の中になかったとしたら、私はとうの昔にぽきんと二つに折れてたと思う。どっかしみったれたところで、膝を抱えてのたれ死にしていたと思う。大事なことやらしょうもないことやら、いろんな記憶を時に応じてぼちぼちと引き出していけるから、こんな悪夢みたいな生活を続けていても、それなりに行き続けていけるんよ。もうあかん、もうこれ以上やれんと思っても、なんとかそこを乗り越えていけるんよ」
(244−245ページ)


村上の今までの作品でこれほどセンチメンタルで直接的な語りがわたしはなかったと思うので、これにはひどく驚いた。関西弁らしき文体で照れを隠しているように、わたしには読めるのだ(関西弁を日常的に使っている人にはどういう印象を与えるのかはわからないが・村上は京都生まれ芦屋育ちだが、連作「地震のあとで」と村上朝日堂シリーズの数篇を除いては関西弁文体を使っていないと思う)。今までの村上の小説は(とくに『アンダーグラウンド』以前の小説)、彼のプライドの高さ、カッコつけたがっている感じ、つまり自分のカッコ悪さを見せないで、気障にふるまう文体/主題がその魅力の一端を担っていたと思うのだが、ここにきて「よく分かんないけど、でもそのよく分かんない人生っていうのは自分の人生なんだから、だったら頑張るっきゃないな」(橋本治青春つーのはなに?』168-169ページ)集英社文庫)というような(村上は「頑張るっきゃない」ということを直接的に言うことはないのだが)メッセージを差し出してきた。彼の文体/主題はどうやら変化しつつあるので、今までの韜晦が薄れた分これからどういった作風になっていくのかは楽しみだ。しかし、それがわたしにどういった印象を与えるのかどうかはわからない。本作は過渡期的な作品である。


評価:★★