第2章 フーゴ・バルについて 2-1 バルの人生



 フーゴ・バル(Hugo Ball)は1886年2月22日、現在のドイツに生まれ、音楽好きで敬虔なカトリック信者の家庭に育った。バル家は決して裕福ではなかったようで(兄弟がほかに5人もいた)、彼はギムナジウム卒業後、一度大学進学を断念して、皮革工場に就職している。大学入学のとき彼は20歳で、5年間大学に在学、ニーチェに傾倒するが、結局中退し、1910年、ベルリンで演劇学校に入り、4年ほどの間、ドイツ国内の小劇場で舞台監督や演出家として活動していた。

 そんなバルはやがて「第一次世界大戦中ドイツから逃れてチューリヒのシュピーガルガッセという湖畔に近い古い街の一角に芸術・文学のキャバレー、「カバレー・ヴォルテール」を開き、いわゆる「ダダ」運動の開祖、その精神的支柱とな」(フーゴ・バル『時代からの逃走』 1975年、みすず書房)るのだが、少し時間を戻して彼の1914年に注目したい。 

 バルが同年、ミュンヘンで、晩期の「青い騎士(ブラウエ・ライター)」のメンバーと交流し、抽象表現について大きく刺激を受けたこと、そしてその年の11月には、第1次大戦で従軍し、戦場の暴力に打ちのめされたこと。このふたつが、バルにもたらした衝撃が大きかったことは間違いない。人間存在の「光」である芸術に対する真摯さと、人間存在の「闇」である戦争に対する真摯さ。生真面目な彼は、このふたつをまず生きた。すなわち、芸術においては、抽象を志向する。そして、戦争に対しては反戦の態度を取る。その後、彼はその両面において挫折を味わうのだが、ここでは触れない。



 バルの人生において大きいのは、ひとがその人生の中で大きな影響を与えられるであろう、伴侶の存在である。バルの深く厳しい人生において、その妻もまた芸術家であったということは、彼が若き日に抽象的な表現を経た後、やがて具体的な表現へと回帰していくことをわりと想像しやすくさせる。人生の進退をともにする夫人もまた、芸術を愛する者であったということは、バルの創作においても、それが何よりの支えであったはずだ。しかし、よほどの星の下に生まれない限り、ただでさえカネにならない芸術の世界で、抽象的な表現を目指せば目指すほど、食べていくのに困ることはいうまでも無い。彼らは餓死はせずとも、決して、裕福とは言えない暮らし向きであったろう。

 空腹な状況で、果たしてひとは、「わりと食べられる」観念に向き合うか、それとも「食べにくい」(腹を満たしてくれない)観念に向き合うか。バルが晩年、芸術から離れ、政治論文を執筆し、ドイツの社会を憂いたり、やがてキリスト教研究に打ち込んだというのは、「抽象」より、より確かな「信仰」を求めてのことであったろう。それは、神の子イエス(それが「政治」という名であっても同じことだ)に救いを求めると同時に、彼が、文筆を通じてキリスト教とかかわること自体によって救われていたともいえそうだ。


 何かを信じている、信じていない、と言うか言わないかを別として、文学であろうと、政治であろうと、宗教であろうと、ひとは常に何かを信じなければ生きていけない傾向がある。「わたしは何も信じていない」ということはできるが、それはことばに拠ってである。何かを信じる信じない、それはことばによって表される。ゆえに、バルのように、言語、そして、言語表現を含めた芸術に意識的な人間であれば、「わたしは何も信じていない」と言うことはできない。

 このように、バルは無邪気で安楽なニヒリストにはなれず、「ダダ運動に訣別した後、隠者、聖者と噂されながら、禁欲と極貧のうちに、超自然の理性と恩寵を求めてビザンチンキリスト教研究に没頭」し、「人間と動物と植物との親密な交わりを信じ」ながら、病のため四十歳余の若さで」(同上) 亡くなった。


(2-2へつづく)