第4章 ことばを殺すことばに支配されてどう生きるか 4-1 ダダの批評性について



 ミシェル・フーコーは「権力」という概念を提示し、その「権力」を内田樹は「あらゆる水準の人間的活動を分類し、命名し、標準化し、公共の文化財として知のカタログに登録しようとする、「ストック趨向性」」(内田『寝ながら学べる構造主義』 pp.110-111、2002年、文春新書)であると解説した。彼の指摘に従えば、たとえばツァラの言う「ダダはなにもいみしない」という発言に代表されるようなあらゆる著作、記録も彼が意図したかどうかということを別にして「権力」化せざるを得ない。またフーコーは「言説」という概念をも提示した。「言説」は、「文あるいは言表の連鎖としてまとまった内容をもつ言語表現の意味であるが、ギリシア語の「ロゴス」logosに由来する語であり、直接的、直観的な表現ではなしに、概念作用と論理的判断をへた秩序ある表現というニュアンスを帯びて」(フーコー『言葉と物』 事項索引p.40、1974年、新潮社)いる。フーコーの提唱する「言説」という考え方を頭に入れて、「ダダはなにもいみしない」という「言説」を捉えると、その「言説」が持っている意味の多重性が明らかになる。
 すなわち「ダダはなにもいみしない」とは「ダダはなにもいみ」しないし、したくないのだ、と論理的判断を経てから述べていると同時に、即座にそれさえも打ち消すために「ダダはなにもいみしない」のだと述べている。「いみ」することを「いみ」しない。「いみ」したくないことさえ「いみ」しない。ここで、ツァラは自らことばが絶えずはらまざるを得ない矛盾に気がつき、自分の発したことばを即座に「殺す」ことを試みている。それは「解体」といってもいいのだが、ことばにたいするきわめて批評的な態度である。ことばであらわしたくないものごとでも、ことばであらわした間にそれは必ず何かを意味してしまう、ということ。人間がいかに己のことばに縛られ、また他者のことば(言説)に縛られるものであるか、ということを端的に表していることに、わたしは彼の批評の前駆性を見出したい。




 一方、ツァラと対照的に、バルの姿勢から、その批評性を導くのは困難である。というのも、彼の音響詩が、バルの音響(音声)への深い信仰の端緒を物語っているからである。信仰者は、批評そのものの動機をなす「懐疑」にたいしては、一定の思考停止にあり、むしろ「懐疑」を宙吊りにして、「ことば」の神秘に迫ろうとする態度をもつ。その態度にたいする批判を成しえても、バルの「批評性」へ言及することは甚だ困難であると言わざるを得ない。
 結果的に、バルはダダに幻滅したのだ。彼はツァラたちの考える「ことば」がもつべき複線性(「ダダはなにもいみしない」)に同意できなかったのだ。ゆえに、それは「ことば」を信じるバルの姿勢の証明であるともいえよう。バルの批評性は、このダダに対する批判においては認めることができる。果たして、ツァラが批評家であり扇動家であるといえるとするならば、バルは詩人であり信仰者といえるのではないだろうか。