第4章 ことばを殺すことばに支配されてどう生きるか 4-2 ことばの出現によって「殺され」た何か



 近頃、つまり、2003年のこんにちは「ブロードバンド」時代であるという「言説/扇動」がある。大容量の情報を、インターネットに接続されたコンピュータを通じて入手することが出来れば、あなたの生活がより豊かに、便利なものになりますよ、という「宣伝」が跋扈としている。しかし、それはほとんど「嘘」である、なぜなら「宣伝」は真実や事実を伝えようとするものではなく、主にひとにある影響を与えようとすることを目的としたことばだからである。
 宣伝を信じるものにとっては、言うまでもなくそれは真である。しかし、みながコンピュータを手に入れ、誰もが大容量の情報を手に入れる環境が整ったとしたら、きっと誰もが「ブロードバンド」時代などと言うことはなくなるだろう。大容量の情報は、そもそも「大容量」ではなくなってしまうはずだ。しかし、誰もが「大容量」の情報を手に入れる環境を、手に入れるはずがない間は、「ブロードバンド」時代と、言うことができるのかもしれない。わたしはここで「ブロードバンド」時代という宣伝文句が言おうとしていることよりも、「ブロードバンド」という「ことば」が示唆する問題について考えたい。
 broadという「ことば」は、表面的な広がりをさし、広範囲に及ぶ、という概念をしめすことばであると同時に、細部にわたらない、大体の、大雑把なという概念を含むことばである。そしてbandということばは、帯、しま、筋という概念をしめすと同時に、動詞で用いられる場合は、対象をひもでしばる、ということを意味する。このことから考えると、ブロードバンドとは、大雑把な「帯」なのである。わたしたちをしばる大きな情報群と言い換えてもよいだろう。
 ブロードバンド時代はすでに来ている。なぜならわたしたちはすでにその手の言説にぐるぐる巻きにされているからである。すでに存在するマスメディアがそうだ。テレビ、ラジオ、新聞、雑誌。それらは種種雑多なことばを発して、ひとびとを喜ばせたり、怒らせたり、悲しませたり、楽しませたりする。だからわたしたちはすでにbroadbandedされているということができるのだ。




 ひとはすでに膨大な数のことばに縛られており、また同時にそのことばたちが少しずつ増えていくことを余儀なくされる。それが、わたしたちが生きるということであり、同時に何かを信じるということであり、その「信じる」の積み重ねが、人間存在が生をおくる際に必要な、価値判断の基準を、良かれ悪しかれ育て上げていく。ただ問題なのは、わたしたちに「ことばに縛られている」という自覚があまりないことだ。ことばを発し、ことばを聞くということは、ごく日常的なことで、多くのひとが、日々自分が呼吸していることを意識しないで生活しているのと似ている。
 ダダの試みが示唆するように、ことばの抱える問題は、とき、場所、時期といった諸条件を越えた、ことばそのものにあるといっていい。その他の条件が作り出す問題は、実は副次的なものだ。しかし、何か問題が起きたとき、ことばそのものの問題を問われることはほとんどない。基本的に、ひとはひとが言ったことばを信用するものであり、その信頼を前提として世間が成り立っているからである。ひとは、ことばのあらわす意味内容を問うことはあっても、ことばそのものの意味を問うということはあまりない。懐疑精神は必要だが、あまり懐疑ばかりしていても、心はすさむし、「ことば」そのものについて考え続けることは、精神衛生にはあまりよくない(でも考えてしまうのだが)ということは経験的に、わたしは言える。
 しかし、興味深いことに、ことばは常に嘘をつく。わたしが嘘をつこうと思わなくても、ことばが嘘をついてくれるのである。すなわち、ことばには、そのことばによってあらわされないものごとをあらわさない機能があるのである。言い換えれば、ことばは、そのことばによってあらわされるものごとしかあらわさない。わたしたちは、そのことを経験的に知っている(だから、ことばの「裏」を読んだり、行「間」を読んだりする)が、しばしば忘れる。おそらく「ことばは、そのことばによってあらわされるものごとしかあらわさない」ということを、「ことば」にしないから忘れるのだ。そして、その根本の原理をことばにしたのが、ソシュールである。彼は次のように言う。



 それだけをとってみると、思考内容というのは、星雲のようなものだ。そこには何一つ輪郭の確かなものはない。あらかじめ定立された観念はない。言語の出現以前には、判然としたものは何一つないのだ


トゥリオ・デ・マウロ、山内貴美夫訳『ソシュール「一般言語学講義」校注』、而立書房、1976年を参照し、原典:Ferdinand de Saussure, Cours de liguistique Generale, edition critique prepare par Tulio de Mauro, Payot, 1972にあたり内田が訳出。内田『寝ながら学べる構造主義』p.67


 彼はこう言って、人間は「ことば」をもったのちに、ことばによってあらわされる様々なものごとをあらわせるようになったのだ、と指摘した。あるいは「ことば」が、ことばによってあらわされる様々な物事を生んだ、というほうがごく正確だろうか。とにかく、ひとは、おそらくことばを持ったことで、ことばえであらわせない「何か」をいくぶんか失うことになったことは間違いない。そして、そのような「何か」は決してことばであらわされないために、どんなものか、どれほど失われたかということは知りようがない。


(4-3につづく)