BRAINZ:20世紀の「批評」を読む 第1回:宮川淳『アンフォルメル以後』を読む@渋谷HEADZ



講師:大谷能生


 質疑応答を含めて2時間半ほど。今日の課題は宮川淳アンフォルメル以後』(1963年、『美術手帖』に発表)。アブストラクトな表現が一段落し、ジョン・ケージが来日(1962年)、日本でもパフォーマティブなアートが現れ、NYではリキテンスタインらのポップ・アートが騒がれた時分に、批評の「言葉」が、進む美術の「作品」に追いついていないと批判的に論じつつ、文章の美しさを併せ持った作品。
 美学校講義同様に詳しくノートはとってますが、それをまとめる気力が足りないです...。ので、おまけとしてこの日の感想・それを発展して思ったことなどをつらつらと。




 『アンフォルメル以後』を読みながら感じたのだが「近代」や「現代」って難しいなあと思った。突き詰めれば、言葉の難しさであり不可能性の話なのだけど。


 質疑応答の中で佐々木敦さんが「『近代』と言えるようになることが、近代以後なのだ」というようなことをおっしゃっていたが「近代」にしろ「現代」にしろ、その概念がある程度共有されるイメージとならなければ「近代」も「現代」も無いに等しいとわたしは考える。「ある程度」を定義しろ、と言われるとこれまた難しい問題である。渋谷で友人に叶わぬ恋について延々語る19歳音大生と「近代」と「現代」を共有できるのか/共有する必要があるのか。「近代」をそれぞれのやり方で把握するとして、では「近代以後」は、どうやって定義するのか。大谷さんは「ポストモダンって良く分からない」とおっしゃっていたが、わたしもそれに近い。


 講義前に渋谷のマクドナルドで、テキストに目を通していて前述の宮川淳の書く「言語もまたコンヴェンションである」という一節に目をひかれた。con/comという接頭辞は「一緒/共同」という意味で、conventionには「会合」や「慣習」という意味がある。これは「言語」に対する多くの示唆を含んだ命題(proposition)であると言って良いだろう。


 言葉と言葉が「差異」の指標であると同時に「差異」も言葉で表されるものであるから、「差異」の「差異」がある。まるで言葉遊びのようだが「読む」前に「読む」ことそのものについて考えるのであれば、とりわけ輪読をする場合には、回避し得ない問題である。ある程度(またか・笑)読む対象のこんにち置かれているコンテキストや、発表された時点での評価や、「語」(特に批評では外来語を多用するので)の定義とまではいかないが、共有可能なイメージの調整を行ったほうが、より豊かな実りを得られるのではないだろうか。畑に種をまく前に、土を良く耕さなければならない。「畑」の広さが広ければ広いほど、それは理にかなっていると、わたしは半ば信じているのである。