菊地成孔とペペ・トルメント・アスカラール@渋谷オーチャードホール



特定の音楽を繰り返し耳にすると、誰もがその楽曲構造を、感覚的に記憶してしまう。すると、やがて楽曲そのものではなく、その音楽がどんなふうに鳴っているのか、ということに興味を持つようになるのではないか、とわたしは思っているのだが、いったんそうなってしまうと、演奏会で音楽を聴いて、その帰りに「良かったね、楽しかったね」「素敵だった、本当にね」という素朴なことばのやり取りなど望めない。音楽に一家言ある男たち(女たちでも別に良いが)といろいろを論じたい欲望がムクムクと積乱雲のように膨れ上がってしまい、なんとも言えずもどかしくなる。


本公演では、オーチャードホールの1階8列目上手(かみて)に席があり、演奏が始まった途端なんとも言えず、残念でたまらない気持ちに包まれた。席はほぼ上手スピーカーの真ん前で、エッジの立ったキンキンとした高音中心の音像が形成され続けた。ほぼカクテルピアノとして鳴っているスタインウェイの中・高音と、バンドネオンが偏って中心的に聴取され、わたしの席から位置的に一番遠い下手(しもて)のパーカッション、その前列に陣取るストリングス、そして舞台中央後ろ(パーカッションより上手寄り)のダブルベースに至っては、極めて貧しい高音中心のサウンドしか聴取できなかった。聴く者の心を異世界へ誘うペペ・トルメント・アスカラールの「人さらい音楽」が、やせ細り強制的に脱臭漂白させられたようにしか感じられなかったのである。「これもキッチュで好きだ」とか、「コンサートホールで奇妙なラテンラウンジが演奏される微妙な感じがとても良い」とは言えない。「悪趣味」的文脈を勉強したほうがいいのかな。


「やはり九段会館がよかった、あそこが最高だった」と言っても詮無いことだし、「響き」の多様性を追及しすぎると、己が傍らの音楽ファンとすら会話が成立しなくなりそうだ。従って、考え過ぎるのは禁物だが、音楽とサウンドシステムとしてのハコ(コンサートホールやライブハウス、また屋外の会場や、ギャラリー、サロン的な小さな会場など)の問題については、この一年考えさせられるところが多く、その総決算的な思考をめぐらせるトリガーを起動した一夜となった。また、来年以降ペペ・トルメント・アスカラールはがらりとメンバーを入れ替えるようだが、一連のコンサートホールツアーの経験から、おそらく近代的な多目的ホールでの響きを考慮したものになるだろう。