小室哲哉をふりかえる その2/2(1997年〜2000年)



1997年は、思い返すともう11年も前だ。まだ高校2年生の、17歳だった。この頃わたしは小室サウンドには特に興味が無かった。当時聴いていたのはほとんどジャズとテクノである。ジャズはビル・エヴァンズやエリック・ドルフィー、ジョン・コルトレーンから、スウィングまで節操なくとりあえずいろいろ聴いていた。テクノはちょうど前年くらいからケン・イシイブンブンサテライツといった日本人の名前が紙媒体で目につきだし、この年はなんといっても電気グルーヴShangri-La」がヒットしていたことを覚えている。電気がラブソングを歌ったことは「日和りやがったな」と思わなくも無かったが、実のところどうでもよかった。そこまで電気グルーヴが好きなわけではないし、彼らの融通無碍な深夜ラジオも聴いていなかった。わたしは断然まりん派で、卓球や瀧には関心がなかった。だからまりん(砂原良徳)がこの『A』を最後に、電気を抜けてソロ活動を始めたときはうれしかった。デリック・メイやホワン・アトキンスなど米国のテクノ・クリエイターの名前は知っていたが、とくに聴くこともなかった。ただこの年米国に遊びに行って、むこうのタワーレコードでFAXレーベルの作品を購入し、帰ってきて聴いたりはしていた。


ところで当時わたしが愛好していた日本のポップスは、山崎まさよしスガシカオだ。山崎まさよしはたまたま2ndアルバム『HOME』を、当時交際していたガールフレンドに借りて聴いて「Fat Mama」の出来にたまげた。「ああ、こういうファンキーな音楽をやるブルース好きのミュージシャンが日本でも出てきたのだなあ」としみじみ思った。歴史を知らない若さというのは恐ろしいものである。しかしそう思わされるくらい、同時の日本のポップスは全体的に個性を喪失していたような気がする。同時代のヒットチャートに熱心でなく、アングラなものも聴いておらず、昔の音楽ばかり聴いていた自分が言うのでは説得力に欠けるが、ヒットチャートに魅力がなかったから、昔のばかり聴いていたのも確かで、こうやって1997年くらいから魅力的なシンガーソングライターがちらほら出てきたのである。それは小室ファミリーの全体的な失速と呼応しているように思えないでもなかった。穿ち過ぎといわれれば、むろんそれまでなのだが。


スガシカオは最初人名だとわからず、「ふしぎなバンド名だなあ」と思っていたが、本屋で雑誌を立ち読みしたら高橋幸宏が「最近の音楽だと、スガシカオくんとかいいよね」と誉めており、人名だと知って近所のレンタルCD屋でセカンドアルバム『Family』を借りたのである。蛇足だが、スガの名前は数年たって姓+半角スペース+名前という表記になった。やはりあまりにも珍しい名前だからだろう。アルバム『Family』をきっかけに既に出ていた全シングルと1stアルバム『Clover』を借りて、カセットテープにダビングし、ミニコンポで何度も繰り返し聴いた。彼がJ-WAVEの深夜枠でやっていた「Across The View」という番組もトークが面白く、聴いていた。スガのローディーの奥泉とおる(シンガーソングライターの卵)が山手線の駅前から弾き語りをするコーナーがあって、それがよく記憶に残っている。彼は今いったいどうしているのだろう?






小室の音楽の趣味はとても悪い(=下世話すぎる)とかつてのわたしは素朴に思っていたので、この年以降印象に残っているのは、やはり大スターになった安室奈美恵である。これは単なる世間一般の認識に近いだろう。「Can You Celebrate?」のヒットは社会現象だったし、妊娠、結婚、出産、「Can You Celebrate?」を紅白歌合戦で歌って復帰という、国民的スターとして祭り上げられる彼女は気の毒でもあった。出産前か復帰後か忘れたが、紅白歌合戦で感極まって泣きながら歌唱し、途中で歌が途切れるところに声援が飛んだりするのを見て、実に気味が悪い思いをしたのを覚えている。安室は自身が歌謡スターであるという認識はなかっただろうが、紅白歌合戦という文脈に載ると、彼女も歌謡スターとして演出されるし、そう振舞わざるを得ないように見えたし、実際、20世紀末の歌謡スターだったのかもしれない。まあとにかく日本的な世間を、ある時期の安室は確かに背負っていた/背負わされていた。それがスターというものなのだ、といわれればそれまでなのだが。




安室は早くも98年末にシングル「I Have Never Seen」で復帰する(この年末の紅白歌合戦では前述のとおり「Can You Celebrate?」を歌っているので印象が薄いかもしれない)。その後、「Respect the Power of Love」「Never End」とおよそ1年に1曲、それなりのヒット曲には恵まれたが、以前の爆発的な勢いはなく、アルバム『break the rules』(2000年12月20日発売)を最後に、小室プロデュースから離れることになる。これは結果論だが、果たしてその判断は正解だっただろう。小室哲哉のヒットメイカーとしての、強い印象は90年代後半にあって、21世紀に入ってからは急速にしぼんでいったというのが世間の理解だろうし、わたしもその認識だ。ちなみにアルバム『break the rules』に収録されている「think of me」というダラス・オースティン作曲のミディアムナンバーがわたしは大変好きで、当時、パンクバンドのドラマーをやっていたいとこの家で一緒にコード進行を分析したことがある。サビの進行がホイットニー・ヒューストンの大ヒット曲「I will always love you」に似ていたという結論に落ち着いたような記憶があるが、いまいちど音楽理論を勉強して、アナライズしてみたいものだ。




ここ数日にわたって小室の90年代後半の諸作品を一気に聞き返していたのだが、彼の作曲家としての面白さもさることながら、作詞家としての面白さもあるのだな、といまさらながら気づかされた。これは去る11月8日放送「ライムスター宇多丸のウイークエンドシャッフル」(TBSラジオ)に小室哲哉特集のコメンテーターとして出演したBUBBLE-B氏の番組内での発言が大いに役立ったものである。異様な譜割によって、そしてわたしが好きでないという理由で、いままであまり印象がなかったが、カラオケであれだけ歌われた/歌われている小室ソングスの歌詞は、ひとつひとつにまた異様な感じがあって分析のし甲斐はありそうだ。むろんそれが楽しい作業になるかどうかはまた別なのだが。


ここに例示するダウンタウン浜田雅功H Jungle With t名義による「Wow War Tonight」など歌詞を見ながら聴くと、ほとんど、ワーカホリックな小室のモノローグ(愚痴)を浜田が代弁しているように聴こえてくる(当時の浜田も完全にワーカホリカーだろうから、ダメ押し感もある)。そしてじわじわと浜田のダサさ、歌唱のへたくそさ、急速なビートが、妙な魅力を醸してくるから不思議なものだ。小室の歌詞を、下世話さの観点から、またそして彼の私小説としての歌詞と捉えて分析すると、大衆歌謡作家としての小室哲哉について、それなりに面白い読み物がしたためられそうな気はしている。というわけで、収拾がつかなくなりそうなので、とりあえずこのあたりでおしまい。