ウツボティーク・インタビュー・シリーズ vol.2:孝子ばあちゃん (祖母) これ以上生きていても仕方ない
前口上
「ウツボティーク・インタビュー・シリーズ」と銘打った企画を始めることにしました。次回がいつか、いつまで続けるか、ということはあまり考えずに、とりあえず自分が面白いと思った人に話を聞いてみよう。聞きながら考えてみよう、というような気持ちです。
最近『nu』というきわめて面白い雑誌から大変刺激を受け、「人の話を聞くとはどういうことか」「インタビューって何なのだろう」ということも、この企画を通して考えていけたら良いなと思っています。
第2回目は祖母の孝子ばあちゃんに、その人生について話を訊きました。よろしければ、しばしお付き合いください。
プロファイル
孝子(たかこ)
1917年(大正6年)12月6日、埼玉生まれ。無職。筆者の父方の祖母。2008年12月に91歳を迎えた。現在、東京都練馬区の都営住宅にひとりで暮らす。
これ以上生きていても仕方ない
−お誕生日おめでとう
はい、ありがとう。
−91歳になった感想はありますか。
いやああっという間だねえ。ぱっぱっと二回くらい振り返るともう91だよ。いやあもうこれ以上生きていても仕方ない。
―いやいや(笑)。生まれは1917年ですね。ロシヤ革命の年。
西暦で言われてもわかんないんだよ。
―大正7年でしたっけ...?
違うよ。大正6年。12月6日生まれ。
―生まれたのはどこですか。
埼玉県入間郡だよ。
―入間郡のどのへんですか。
いまの三芳町だね。そこに、わたしの本当のお母さんがいてね。
―どういうこと?
おばあちゃんが三つのとき、お母さんが肺の病になってね。結核ね。
―はい。
で、おばさんのうちに養子に行ったわけ。当時結核は不治の病だからね。体の弱いのや、子供はとにかく病人から離すのね。で、姓が変わった。山本になったのね。わたしの本当のお父さんはよくわたしの様子をよく見に来たの。でも父が来ると隠れてしまってね。昔の農家はこう、床が高くてね、縁の下が広いのよ。で、父がやってくると怖くて怖くてね。いくら呼ばれても出て行かなかった。
―どうして?
おばさんの家は豪農だったのね。まわりはお百姓ばかりよ。そこに背広に帽子の父がやってくると、なんだか普通の人じゃないみたいなわけ。そんなかっこうしているひと周りにはいないんだから。だから、怖くて怖くてね。父は当時大宮の市長をやっていたんだけどね。結局、なんどか迎えにきたんだけど、もうおじとおばを本当のお父さんお母さんと思っていたから、戻るわけにもいかなかったんだね。
―おばさんのうちはどこにあったんですか?
吉見。いまの(比企郡)吉見町ね。当時は村だけどね。そこに住んでたの。そこの家の子になったんだね。
―学校のことは覚えてますか。
はい、(尋常小学校の)高等科を出てね。そのあと師範学校に入ったのね。女子師範ね。でも、そのとき、実の母が危篤になって、急遽やめることになった。いろいろゴタゴタしてね。母が亡くなって落ち着いてから、川越にあった看護婦助産婦学校に行ったのよ。
―秀才ですね。
そうよ。だって卒業式ではおばあちゃんいつも答辞を読んでたのよ。卒業生代表、って呼ばれてね。いつも学年で一番だったのよ。
―ほんとに?
一度くらい二番になったかな。いつもじゃないね(笑)。
―小学校の名前は覚えてますか?
南吉見小学校だね。そこへ最初通った。看護婦助産婦学校は2年だったね。看護婦と助産婦と両方お免状をもらったんだよ。そこを出てから、東京へ出て、働いたわけ。
―どこに勤めたの?
いまの山手線の大塚って駅があるでしょう。あの大塚駅前にあったイトウ医院ね。なんていったかな、女性ホルモン剤と男性ホルモン剤を発明したイトウマサオって先生がいてね、そこで働いていた。で、1,2年したらおっぱじまったわけ、戦争が。
―大東亜戦争だね。
そう、おっぱじまったの。わたしはお医者のところにいたから食べ物に困ったことないね。お医者のところにはお米も回ってくるし、甘いものも回ってくるし、ぜんぜん食べ物には困らなかった。みんな食べるのに大変だったとか言うけど、わたしはちっともだね。先生のところにいたときはいつも白いご飯を食べてたよ。
―あんまりそういうこと大きい声で言わないほうがいいよ(笑)。
そうかねえ。まあ、みんな苦労したからね。それで、戦争が始まってしばらくしてから徴用されたのね。
―なるほど。
それで、都庁に当時、軍人援護会というのが入っていてね、そこで働くことになった。
―それは看護婦とか助産婦とか関係ないわけね。
ないね。兵隊さんを支援する仕事。事務。それで、軍人援護会で働いていたらじきに戦争が終わったの。
―早いな(笑)。
国の都合で徴用したわけでしょう。で、みんなの首を切るわけにもいかないわけ。だから、区内の役所に、ここは何人、って割り当てられてね。役所に勤めることになった。
―異動というのかな。まあ転職したわけね。
今の北区ね。その頃は滝野川と言った。滝野川区役所で事務をしてたね。で、戦争も終わったから、男女交際もできるようになったのよ。あるとき大勢でねえ、遠足かなにかしら、パーティーかしら、遊びに行ったのよね。そこでおじいちゃんと出会うわけ。
―グループ交際ですか?
そうよそうよ。大勢でね。で、話をしているとおじいちゃんは「僕は嫁の来手がないんだ」って言うのよ。「あらそう、わたしは貰い手がないのよね、偶然ね」っておばあちゃんが言ってね。当時、大勢若い男の人が死んだしね。軽い感じで言ったのよ。
―それでトントン拍子で結婚するの?
そう。すぐにご挨拶にいってね。こっちもそうだけど、向こうも(生みの)親がいなかったからね。年の離れたお兄さんに育てられたから、お兄さんと二人で挨拶に来たわ。お兄さんは当時都内で出版をやってたのね。本を何かいろいろ出していて。それで、当時のお金でお祝いで3000円くれたのよ。当時のお金でね。結構な大金よ。
―結婚は昭和22年でしたっけ。
そう。確かそのくらい(笑)。翌年にあなたのお父さんが生まれるわけ。
―30歳で結婚かー。晩婚の走りですね。
そうよ。昔だったら行かず後家のクチだね(笑)。
−−−
―こういう質問をすると奇妙に感じるかもしれないけど、なんで結婚したの?
うーん、まあそういうものだったからねえ。
―男女は結婚して夫婦になって家庭を築くものだと。
そうだねえ。
―子供をもうけたのはどうして?
そりゃ老後の面倒を見てもらうためだよ(笑)。
―えー(笑)。本当に?
そうだよ。そういうもんだよ。
―ほかに理由はないの?
ない!夫婦になったら子供をもうけるもんだよ。そして年寄りになったら子供に面倒を見てもらうの。昔はそうだったんだよ。いまは独身の人が本当に増えているみたいだねえ。
―最近の若者は自由でいたいんだよ。やっぱり夫婦というのはお互いに頼りあってしまうでしょう。それが煩わしさの元でもあるでしょう。
若いうちはいいよ。でもずっとひとりじゃさびしいよ。
―そうかもね。なんか深いなあ。
あんたは結婚しないの?
―うーん、いつかはしたい。人生長いからねえ。ずっとひとりはきついだろうなあ、精神的に。
良い人いないの?いるんでしょう。ひとりやふたりいるでしょう。あんた美男子だし女の子に追いかけられて困るでしょう。あんた優しいし。
―いやあ、そんなことないよ。残念ながら追いかけられたことなんて一度もないよ。いつも追いかける側だよ。
あんた幾つになった?
―ぼく、ことしで28ですよ。ね、すごいでしょう。結構いい年でしょ。
じゃあ、永遠に愛せる良い人を見つけて結婚しなさいよ。
―永遠に愛せる・・・それは難しいよ!(爆笑)
まあでもそろそろだね(笑)。そろそろいい年よ。おばあちゃんにおんぶされてたのにねえ。
―そうですね。覚えていないけどね。
あの、狭山の家の前でねえ、夕焼け見ながら、あんた「のんの、のんの」って言ってたのよ。
―うん。
夕日を指差しながらねえ。「のんの」ってお日様のことなんだね。今でも覚えてる。それがまたこんなに立派になってね。
―いや、まだまだですよ。
あんたはきちんと働いているしね。立派だね。
―当たり前のことですよ。
そんなことないんでしょう、最近。なんだっけ、なんとかと・・・いうのが増えているんでしょう。なんだっけ、なんとかトとか。
―よく知ってるねえ(笑)。ニートねー。ひきこもりとかね。
テレビでやってるから知ってるよ。病気なんだよね。**(わたしのいとこの名前)も神経科だか精神科だかで診てもらえばいいのに。
―なかなか難しいんですよ。病気なのかそうでないのか線引きが。**だって病気なのか、怠け癖なのか、まあどっちなんだろうね。
難しい時代だね。むかしだってそういう人はいたけどねえ。働かない人はいたんだけど今みたいに大勢じゃない。
―テレビはよく観るんですか?
観るよ。いろいろ観る。
―一日どのくらい観ますか?
そうねえ。夕飯の後が多いのよ。だから7時か、8時くらいから観始めて、10時まで観てる。面白いのがあるとその後も観てるよ、11時くらいまで。
―観すぎだね。一日3,4時間は観てるんじゃないの?
そのくらいは観てるね。だから目が疲れちゃう。
―どんな番組が好きですか。
お料理番組はだいすきだね。一番すき。いつまでも観ちゃうね。
―ニュースは観ますか。どんなチャンネルが好きですか。
観るよ。NHKで9時のニュース観て、その後民放のニュースね。筑紫さんが出てたやつとかね。
―ニュース梯子するんだ(笑)。クイズ番組なんて好きですか?
観るよ。まあいろいろあるから一口にいえないよ。
―そんなにたくさんあるの?
あるよ。でも本当は新聞が読みたいのよ。でも読む元気がなくてね。字も小さいから。
―目が疲れますからね。
毎日新聞取ってたら、読売、朝日って次々(販売店に)三カ月おきに取らされてね。怒って「もう要らない」って言っちゃったからね、取りにくくてね。
―でもそれだけテレビ見てるんだから、テレビでいいんじゃないですか?十分情報通でしょう。
ううん、テレビはつまんない。
―どこが問題ですか?つまらないってのは?
ニュースなんて同じ話題でもテレビは雰囲気ですぐ流れていっちゃうでしょう。新聞は細かく書いてあるよ。
―よく観てるなあ(笑)。
細かく書いてあるほうがいろいろ知られておもしろいでしょう。でも目が疲れるからねえ。
―テレビを観て何時くらいに寝るんですか。
だいたい夜中の12時だね。
―宵っ張りだなあ(笑)。
でも朝は9時まで寝るよ、毎日(笑)。
―9時間睡眠ですか。小学1年生よりも寝てるかもね。
そうだねえ。起きてまあ、午前中はぼんやりしてたり、ヘルパーが来たりしてね。何か少し食べたりして。
―ヘルパーさんはどのくらい居てくれるんですか。
1日1時間だよ(笑)。だからねえ、ほんとにあっという間だよ。くるでしょう、あの子(ヘルパーのこと)が来て、挨拶をして寒いですねえ、とかどうでもいいことをしゃべって、お茶を出してるとあっという間だよ1時間なんて。
―そうね。挨拶してなんやかやで30分くらいすぐに過ぎちゃうでしょう。
そう。でもあの子も大変なんだよ。もういい年なのに働かなくちゃやっていけないんだからね。
―幾つぐらいの方なんですか。
よく知らないけど57,8くらいじゃないの。で、なんかひとつ頼みごとをしたらそれでもう時間が来て、帰っちゃうからね。それでお昼は何か食べるでしょう。ほんのすこし。食べたり食べなかったりで。
―すぐ午後ですね。
そうなの。さびしいもんよ。足腰がもうちょっとまともに動けばねえ。散歩だってできないからねえ、これじゃ。
―気晴らしがないですね。
だからテレビ観ちゃうのよね。
―趣味はないんですか。本を読んだりとか。
ないね。昔から。無趣味だね。
―子育てで忙しかったから?
うーんなんでだろうね。子育ては夢中でやったね。でもおじいちゃんもおばあちゃんも本なんて読まなかったよ、あんたのお父さんみたいに。
―そうですか。何が楽しみだったの?
うーんなんだろうねえ。あんたのお父さんは本をたくさん買ってるでしょう、今でも。大学の頃からだよ、あの子。本以外は何にも買わないんだあの子。
―子育てが終わったら何をしていたんですか。
ずっと練馬の都営住宅に住んでいたんだけど、狭山に家を買ったのよ。昭和50年くらいにね。あんたが昔住んでたところ。で、そこに2,3年住んでいたの。おじいちゃんとお父さんと3人でね。
―はい。
それで、あの子(わたしの父)が結婚することになってさ、「しばらく夫婦ふたりにしてくれないか」って言われてね。都営住宅は家賃が安かったから、ずっと家賃を払い続けてたのね、3年くらい。だから、じゃあそこに戻ろう、って話になってね。おじいちゃんとふたりで戻ったわけ。で、あとはずっとここにいるのよ。
―都営住宅の立替がありましたよね、もう、10年くらい経ちますか。
なにいってるの。もう15年くらいだよ。
―そんなに経ちますか。
おじいちゃんが死んじゃってから10年くらいでしょう。
―まだ7,8年ですよ。
そう。何が長いか短いかわからなくなってくるからねえ。あんた結婚しなさいよ。
―しますよたぶん、きっと、時機を見てね(笑)。
そうね。この年になるとね、子供がいてよかったと思うことあるよ。
―そうですか。
会えなくてもね、ああ、あの子がいるんだな、って思うだけで救われるんだよ。
―ああ……救われますか。深いなあ。
そういうことがあるんだよ。だって子供がいなかったら、いまおばあちゃん生きている意味ないもんね。
―そうですか。
だってもう何にもないよ。孤独だよ。足だってまともにうごかないチンバだからね。
―うーん。
だってさ、何もすることないよ。もういつ死んでもいいんだよ。でもあんた、xxが結婚するんだよね、来年。
―そうですね。
あんたのお父さんが、おばあちゃんを連れてくってさ、結婚式に。行けるかねえ。どうしても連れてくっていうけどさ、こんなカタワだよ。
―楽しみができましたね。
そうだよ。だから子供はいいこともあるんだよ。
―今日はありがとうございました。また話聞かせてね。
はいはい。こちらこそありがとうね。
―次はお正月に狭山にいらしてくださいね。父が迎えに行きますから。
行けるかねえ。その頃死んでるかもしれないよ(笑)。
―いやいや、こんなおしゃべりする人はすぐには死にませんよ(笑)。
でもカタワなんだよ。いつ死ぬかわからないよ。
―まだ当分いけますよ。
そうかねえ。
―そうですよ。
(おわり)
練馬区の祖母宅にて12月10日収録
文責・編集:ウツボ