テクノロジーは同時代性を担保するか



 あなたがいま考えていることが、隣にいる誰かにとって関心を持ってもらえる内容である保証が無い。そんな傾向の強い現代、ひとびとの同時代性を担保するのはテクノロジーだけかもしれない。わたしたちひとりひとりが持つテクノロジーに対する姿勢と言ったほうが、やや正確だろう。例えば、本邦でも先般アップルのiPhoneが発売された。iPhoneについてさして興味が無くても、それはケータイが進化したようなデジタル・ガジェットであり、話題の新製品(手垢にまみれた常套句)であるということを、誰もがなんとなくは知っている。むろん正確な情報ではないが、ともあれ誰もがなんとなく知っていることが重要である。
 早くもそれを手に入れた人々の間では賛否両論が巻き起こり、インターネット上でいろいろなひとがさまざまなことを言い始めている。この種の論議の細かな部分は、もはやテレビや新聞といったマスメディアではフォローしきれないのがウェブの普及した社会の一側面である。ここで、ひとつの例として、既存のケータイの利便性とiPhoneのそれを比較する議論があるとする。いまからおよそ一世紀前には電気式蓄音機が生まれているが、おそらく当時も手回し蓄音機と電気式の利便性についてひとびとは議論を交しただろう。映画『2001年 宇宙の旅』ではないが、人間はおそらく「火」を発見してから(これは発明ではないが)延々とその長所と短所について論じあっているように思われる。こんにちのわたしたちは科学技術とその影響から逃れずに生きることが難しく、深山幽谷で暮らし続けるということをほとんど想像しない/できないでくらしている。


 iPhoneはあまりに新しい商品であるから、ここでのたとえにはふさわしくないかもしれない。ではもっと日常に根ざしている度合いの高いケータイについて考えてみよう。
 こんにち老若男女を問わず、ケータイを持ってコミュニケーションを図ること、またはそれをあえて拒むことは、価値観が多様化したとされる現代社会のなかで、明確な意見表明になりうる。そういったテクノロジーと新しいメディアが、わたしたちの実生活に入り込み、やがてそれなしでは生活することが考えにくくなること、またそれについて仮に少数であっても、かたくなに抗し続けること/ひと/現象があること(たとえば、アマゾンの原住民のほとんどは21世紀に生まれてもケータイを使わずに日々の生活を営み、死んでいくだろう)。こういったことがらについて考えていくことが、同時代性のような何がしかを育んでいくのではないか。このようなごく当たり前のことを、何かを作ったり演じたり提示するさいに常に考えて行くほうが面白い何かが生まれてくるとわたしは信じている。むろん、そういった理性的/知性的/構築的ななにかを飛び越えて、何か面白いものがあらわれてくることもあるに違いない。しかし、たとえば、音楽についていえば、音楽製作がパソコン1台でできるようになった時代に生演奏をすることと、人間が弦を爪弾いたり、太鼓を叩いたり、うなったり叫んだり歌ったりする以外に音楽が成り立たなかった時代はあきらかに異なる。後者の時代においてはおそらく「生」演奏という考え方が存在していない。音楽とはいまそこで奏でられ消えてしまうものである、ということがあまりにも自明であり意識されないところから、わたしたちはなんでもデジタルデータとして記憶を所有できるような気がするところまで、大きく変化してしまった。それがわたしたちの同時代性の一端ではないだろうか。


(2008年8月執筆/2009年1月改稿)