わたしの家庭観



外付HDDを掃除していたら2003年7月26日付けのドキュメントが見つかった。当時、友人の運営していたウェブサイトに、家族か家庭をテーマに書いてほしいと頼まれ寄稿したものである。そのウェブサイトもすでになく、いまいちど読み返してみて(いろいろな意味で)なかなか面白いことを書いているなと思ったので、ここに公開する。


わたしの家庭観


文:ウツボカズラ(フロスティッドグラス)



家庭について何かを言う前に、その家庭を構成する最小単位まで下りて考える必要がある。おそらく、家庭について考えるということは、まずふたりの個人(家庭の最小単位)について考えることである。


日本人には西洋でいう"個人"(individual)の概念が理解されていないというが、それはとりあえず措いておく。個人というのは、ひとりの人間であるということである。このことが重要である。ひとはみな"ひとりの人間"なのだ。そしてひとは"ひとりの人間"では、生きられない。しかし、ひとは自分が"ひとりの人間"である、そしてまた隣に住む男/女もまた"ひとりの人間"であるということを忘れがちである。忘れがちというよりは、それはすでに自明のことで、いちいち考えない、といったほうが正確かもしれない。隣人と顔をつき合わせて、"ああ、あなたもひとりの人間なんですね"と、思ったり、それを口に出して言うことはまずないからである。


ひとりの人間が、またもうひとりの人間に相対するとき、最低限の敬意を払うことが必要である。これがなかなか難しい。ちょっと極端だが、もしあなたが、街を歩いていて、ホームレスに話しかけられたとする。そのとき、あなたは、彼に最低限の敬意を払うことができるだろうか。最低限の敬意とは、つまり、彼の顔を見て、きちんと話を聞くということである。他者に関心を持って、意思の疎通をはかることは、他者に対する最低限の礼儀(敬意をあらわす方法)である。彼がとんでもない臭いを発していようと、命の危険を感じない限り、わたしたちは、彼の話を聞いたほうがいい(それがどうしても苦痛だったら、回避するしかない)。それは、むろん理想であり、そんなことをいったって、くさい臭いを発するホームレスに実際、話しかけられたら、わたしは面倒くさいな、いやだな、あるいは早くここから立ち去りたいな、と感じるだろう。そしておそらく、彼を無視して立ち去るに違いない。ここでのホームレスは、自分にとって不快な他者の象徴である。そして、人生における不快な他者はホームレスに限らない。自分と利害をともにしない他者は往々にして不快な存在になりうるからである。


家庭を構成する最低要素は、おそらくふたりの人間である。彼らが、精神的、肉体的に深いつながりを持っていると強く信じており、互いの判断がとりあえず一致して、結婚したとする。すると家庭が生まれる。彼らは、家庭を作った。しかし、彼らの基本的な様相が変わるだろうか。変わらない。つまり、いくら互いに愛し合っていると信じていようが、相手に対する最低限の敬意がやはり必要とされるからである。しかし、一緒に暮らすようになれば、互いの利害が一致せず、争うこともある。わたしたちは、そんなときしばしば相手の話を無視するだろう。「きょうは仕事で疲れたから、そんな話は聞きたくない」と。ひとは自分がいちばん大切なので、いくらそばにいる伴侶が大切だからといっても、自分には相手の望みをかなえられないことが多いのである。そして、そんな人間が、こんどは自分の主張が伴侶に無視されたといって怒る。互いに互いの話を聞かなくてはならないことはわかっている。でもそれができない。そんな生活の中で、相手の主張を無視することがあっても、相手との話に、わりと誠実につきあえる人間は、なんとか家庭を維持できる。話を聞こうとする姿勢が相手に伝わるからである。敬意を表現することは、必ずしも相手の主張を受け入れるということとイコールではない。ただ、話を聞こうとする姿勢を示すというだけで緊張が緩和されるということが日常では、よくある。話そうというそぶりはあっても、結局相手の主張に耐えられなくなったふたりは、家庭をあきらめて、互いに個人に戻る。すなわち、離婚である。


シャネルの創設者、ガブリエル・シャネルは、幼い頃両親を亡くし、長い間孤児院で過ごした。彼女は交友関係も幅広く豊かで、男性との交際を好んだという。同様にたくさんの男性が彼女のことを好んだ。しかし、彼女は生涯独身であった。服飾デザイナーとしての生き方を貫いたからである。彼女は、子供の代わりにたくさんの作品を生んだし、夫がいなくても日々働き続けた。自分の思うとおりに生きた彼女は、成功者となり、こんにちでも偉大な存在として認められている。しかし、その"自分の思うとおり"を選択した彼女は、とくに晩年孤独であった。「ひとは伴侶を持つべきだ」と漏らしていたという。シャネルの話からわかるように(シャネルほどではないにしても、なんらかの)強い"自己"を捨てられない人間は、他人もまた"自己"をもつ、ということを認めることができない。だから家庭を作らないし、作れない。作っても失敗する。それは良い悪いという問題ではない。しかし、そんなふたりの間にもし子供がいたら、それはずいぶんと問題である。子供は好きでもないのに、両親がはなればなれになり、迷惑するからである。ほんとうに、心のそこから迷惑であると思う。自分だって"自己"が強いから、強い"自己"を持った親同士が離婚してもしかたないかな、とも思う。しかし、わたしがそう思ったところで、離婚をした親を持つ子供が迷惑をこうむることに変わりはない。


わたしの両親は、日々口論している。年に一度くらい大喧嘩をするが、わたしが成人しても離婚していない。これはありがたいことだと思っている。でも同時に、おそらくわたしは両親が離婚したひとの心の痛みは理解できないだろうな、とも思う。仮に話を聞く機会があったとしても、彼/彼女の身体的に残っている痛みの感覚というのは理解できないと思うからである。その相手に深い好意を抱いていれば、理解したい、理解できたらな、とつとめることはできるかもしれないが、それでも完全な理解などない。経験的に、これだけは言える。そして、もしかしたら、"理解する"ということは、他者を理解し続けようとするその姿勢そのものを意味するのかもしれない、と思う。理解しつづけようとする姿勢を保つには、ある程度の気力と体力、つまり健康が必要である。


とくに両親の離婚を経験していないひとであっても、自分の知らない範疇で、自分の知らない種類の傷を負っているかもしれない。では、いかにそんな他者を理解することに近づくか。それは今までに自分が体で覚えてきた痛みを思い返して、あんな痛みだったろうか、それともこんな痛みだったろうか・・・と考え続けていけるか、いけないか、ということによるはずだ。身体感をともなう、やわらかな思考が必要である。それは、たくさんひとに迷惑をかけて怒られたり、注意されたり、時には、ひとから口汚くののしられたり、蹴られたり殴られたりして学ばなければならない。他者を介在する体験的な知識が、身体感を伴った思考のもとになる。自分で"自己"を理解するということも大事だけれど、自分が他者を認め、他者が自分を認めてくれる、その積み重ねが生きていく上でもっとも重要である。他者を認めない"自己"など存在し得ないということを、理屈でわかるということより、むしろ体感的に認められること。体感的な記憶が、的確な判断につながり、それは結果的に、他者への敬意にもつながる。


いま部屋にいるひとりの"自己"は確かに否定できるものではない。しかし、じぶんの部屋に自分以外誰もいないからといって、それは自分以外の"自己"が存在しないわけではない。そんなごく当たり前に思うことを、部屋の外に出て、体に刻み付けること。うまくはいかない。失敗するかもしれない。しかし、それに挫けても、にやにやふらふらしながら歩き続けていくこと。それが大切だ。その過程で家庭を持つことができたら、曲がりなりにもわたしは"大人"として認められるのかもしれない。もし"大人"というのが、ある程度成熟した人間という意味であれば。今は、まだ"大人"になれるのか、家庭をもてるのか、ということに自信がない。なぜなら、ここに書かれていることは、わたしの理想を含んでおり、現実のわたしとの間には大きな溝があるからである。