mixiの終わり(からこの10年のウェブ生活を雑駁に振り返るの巻)もしくは、出会い系としてのインターネット私論(第1回)




今、ユーザ数が「千万」のオーダーに達したmixiは、玉石混淆のほとんど制御不能なサイトになり、そこを無理矢理制御しようとして、人畜無害なコミュニティまで削除してしまった、などの問題が生じていることは、みなさまご承知のとおりだ。言い換えると、「村」どころか、諸悪すべてひっくるめた「都市」の様相を呈しているようだが、しかしそれでも、古典的ソーシャルネットワークシステム(SNS)の文化的資質として、情報のフリーでオープンな公開/交換 /共有の場にはなっていない。



[jp]情報の公開と非公開のジレンマ…SNSは過渡期的な文化にすぎないか?


実にその通り。mixiのアナロジーとして都市って適切かもしれない。「まだ誰も言っていなかったの?俺が知らないだけかな」という気もするが。


かつてあったSickness Unto Yamamoto Naoki*1という山本直樹のファンサイトを通じて知り合った友人のH氏に誘われて、2004年3月からmixiを始めた。当時、グーグル社員のオーカット氏が個人的に始めたorkut*2というSNSがすでに知られていて、新し物好きはすでにorkutに登録して(mixi同様、当初は招待制だったが)、ヘタクソな英語で外国人(ダダ好きのアメリカ人とか、アニメ好きのチュニジア人とか)となんとなくやりとりしたりしていたのが懐かしい。あれがたった5年半前であり、同時にもう5年半経ってしまったという、なにか引き裂かれたような時間感覚があるのは不思議だ。


mixiが持っていたかつての新しさや熱い感じ(始まって最初の頃は、ユーザが意見を出すと日に日にインターフェイスの使い勝手がよくなったりして、感激したものだ)、爆発的な流行(街を歩いていて、見ず知らずの人の口から「mixiって知ってる?」と耳にした驚き)、その反動などを垣間見つつ、だらだらと使ってきた。mixiを通じて仲良くなったり、別れたりする人間関係もそれなりにあったが、インターネットはそもそも出会い系だった。そう感じた理由を少し述べてみようと思う。


わたし*3が大学1年のとき=1999年に大学のサーバにHTMLをアップロードしたとき、もうすでにそうだった。インターネットは出会い系だった。出会い系という言い方はいささか陳腐なので、それが悪ければ、リアルでのコミュニケーションが苦手なやつらでも、生き生きとした(振りで)コミュニケーションできる場として日本語のインターネット界はすでに機能していた。わたしは音楽や漫画の話題を地味に書き散らす(テキスト系・・・まだそのときはそのことばは無かったが)ホームページ*4(当時「ウェブサイト」と言うと、同級生に通じなかったりした)をやっていた。当時は作成者のメールアドレスを明示したHTMLで構成されたホームページに掲示板システムがリンクされているというのが一般的なスタイルだった。まだロボット検索などがろくに機能していなかった(ような気がする)懐かしい時代だ。


初めて閲覧する掲示板に書き込むには、そこの常連と思しき(自らより年長であろう)物知りたちの井戸端会議に飛び込んでいく、若干の勇気が必要だったし、誰かにメールを送るというのも緊張したが、若さゆえの勢いと厚かましさと孤独さ、無根拠なポジティブさが背中を後押しして、そこでいろいろと得るものがあった。文化的事象*5にきわめてディープにコミットし、カネを払い、語ったり愛好しているろくでもない/素晴らしい/愛すべき(つまり、触れ合うたびにアンビバレントな気持ちを抱かせる)繊細さにつぎつぎと出会い、驚いたものだった。実際に面白いと思ったら、わたしはその相手になるべく会うようにしてきた。それは自然にそうなる部分もあったが、2000年頃、YMOファンとして知り合ったI氏から「ぼくはインターネット上でなるべく面白いと感じたひとがいれば、できるだけメールをしたり、やりとりして、そして実際に会うようにしているんだ。そうしないともったいないからね」ということばを聞いて、強い影響を受けたこともある。そしてそうやってネット経由での人間関係が広がっていけば、恋したり、憎んだり、憎まれたり、別れたり、誉めあったり、諍いが起きたりと、それなりにいろいろと問題も起きるわけで、多少心身を痛めたりもした。そしていまに至る、と(2002年7月にははてなアンテナを使い始めたり、2003年2月からはてなダイアリーを使い始めたり、そこらへんの話も無くは無いけど今回は省略)。


さて、このごろ話題になっているTwitterTumblrなどというサービスは、よくいえば、既存のウェブサイトの文化やブログの文化が醸すものよりもフレキシブルで軽くなっているが、悪くいえば尻軽で、重みのあるコンテンツが望めない傾向が強いような気がしている(コミットしすぎると、リテラシー、具体的にはテキストの読解力など、が全般的に低下するような気すらする)。だからこれらのツールも基本的には、ひととひとのコミュニケーションツールとして始まり、そして終わってしまうのかな、という気もしている。あるいは情報と情報をネットワークしていくツールとして流行し、廃れ、終わる(宣伝や扇動の道具として使われやすそうなところが、廃れることにつながらないか危惧する。また、Tumblr著作権の問題など問題はいろいろいろあろう)。
むろんTwitterTumblrを同じようなものとしてくくることそのものに無理があるのは承知している。いずれにせよ、これらが過渡期的なツールかどうか。それはどの時点や立場に論者が視座を持つかということで変わってくるとは思うのだが、いまのところこれ以上展開する案を思いつかないので、やめておこう。たとえば、尻軽とか、脊髄反射的とか、そういう形容でインターネットサービス(とそのユーザ)を語ることってすくなくとももう10年くらい・・・いや、ブログ以降かなどうだろう・・・続いている気がするし、こういうくくり方自体が陳腐すぎるという批判はもちろん歓迎する。しかしながら、無理を承知でくくったときに、なにかしら傾向のようなものでもまろびでればいいなと思いながら、稚拙な私論を申し述べてみたしだい。また気が向けば回顧的かつすこしは未来に希望が抱けそうな雑文をものしてみたい。起承転結のある文章を書くリハビリの一貫として。

*1:http://www2.tky.3web.ne.jp/~cogiton/feature/yamamoto.html すでに閉鎖された

*2:http://www.orkut.com/

*3:1980年(昭和55年)9月生まれ

*4:http://www.geocities.jp/utubotique/ その成れの果て。10年前に書いた文章ももちろん閲覧可

*5:いわゆるサブカルと呼ばれることの多い、若者向け商業文化をさし、支配文化はあまり含まない