わたしの1990年代



わたしは1980年(昭和55年)9月の生まれである。だから、多感な10代の青春期は1990年代に過ごすことになった。あの頃の経済不況や世相はわたしにとっては遠いものだった。というのも、我が家は公務員の家庭だったから好不況があまり家計に影響しなかったためである。しかし、わたしが時代の雰囲気から無縁であったとはいえない。なぜなら、既存のカテゴリに当てはまらないような、躁病的もしくは鬱病的な音楽を愛好したからだ。ありていにいえば、極端であたらしい(と感じられた)表現衝動が凝縮されたアンビエントやテクノと呼ばれた音楽を好きになってしまったからだ(1980年より前のスウィング、ジャズ、ブルース、ブギウギ、ファンクも好きだったが)。むろん当時、学校の同級生の口からは「アンビエント」ということばを聞いた覚えは無い。1993年(わたしが中学校に入学した年)から2000年頃までのヒットチャートはビーイング(B’z,WANDS, ZARD,大黒摩季,TUBE,ZYYGなど)や、小室ファミリー(篠原涼子,trf,安室奈美恵,華原朋美,globe,鈴木あみなど)、ミスター・チルドレンなどロック風な日本歌謡バンドが席捲していたし、だいたい自分の友人はまだまだ幼く、ヒットチャートやアイドルに夢中になっており無理もなかった。


ところで1993,4年―当時わたしは中学1-2年生だった―ころ、わたしの父は毎日新聞を購読していた、当時、新聞にweeklyくりくりという別冊小冊子みたいなものが挟み込まれていた(毎日小学生新聞とは異なる)。くりくりのマスコットキャラクターは赤塚不二夫がデザインしていた。
そしてなぜかわりと読者投稿欄が充実していた。わたしも何度かはがきを送ってそれが記事になった覚えがある。たしか週1回か、隔週発行か、そんなものだったが毎週読むのが楽しみだった。くりくりは若者向けの紙面が作られていて、音楽コーナーもわりと充実していた。だから、ヒットチャートと連動しているだけのテレビの歌謡番組などよりよっぽどおもしろかった。そして、199x年のある日、わたしはくりくりの音楽コーナーでケン・イシイの記事を見つけた。彼はベルギーのレーベルからデビューしたことで注目を浴びていると書かれていた。いまでも実家に帰れば当時のスクラップ帳兼日記帳に切抜きが貼ってあるはずだが内容は覚えていない。しかしながら、彼はわりとベタな形容で紹介されていたような気がする。日本のテクノゴッドとかその手の手垢にまみれた修辞で。まだテクノとテクノポップ(いわゆるエレポップ)と、それぞれのことばが混同されて使われていた時代で、読者としてはすこし奇妙に思ったが、しかしわたしも幼かったから、その疑問をきちんと言語化することはできなかった。いずれにせよ「テクノゴッドってYMO(Yellow Magic Orchestra)やクラフトワーク(Kraftwerk)のことじゃないの?テクノってテクノポップと違うのか?どんな音楽だろう。YMOのあたらしいような感じかな?」と当時のわたしは素朴に興奮した。なぜなら、まだラジオの番組は毎週末J-POPのヒットチャート番組を狂ったように聴いていただけだし、漫画の単行本や本を読むのに忙しく雑誌を読む習慣も無かったからだ。若く、音楽的体験も乏しく、情報や知識がなかったが、その分音楽に対するイマジネーションは大きく広がったし、そのきっかけになるのがテクノやアンビエントであった。多くの音楽がすべて自分にとってはあたらしかったわたしをすこし思い返したい。


あの頃、小遣いをどのくらいもらっていたのだろうか。はっきりとは覚えていないが、ひと月2000-3000円だったはずだ。昼食は母の手弁当だったので、食費もかからなかったが、13,14歳ではアルバイトもまだできない年齢だったので、金銭的に余裕があるとはいえない。わたしの母は貯蓄と倹約が生活指針の根本にあったから、小遣いをせびるということも考えられなかった。
小遣いのほかにもらえるのは、せいぜい散髪代や医療費くらいのものだったから、わたしは本を読むのにも音楽を聴くのにも映画を観るのにも、学校図書館と市立図書館をフル活用するようになった。「お金を遣わなくても楽しい生活はできるのよ。図書館に行きなさい」というのが母の教育方針だったし、新譜の国内版アルバムを1枚買ってしまったらその月に自由になる金はほとんど無かったから、うかつに新譜は買えなかった。したがってテクノやアンビエントといった新しい音楽を聴きたければ、FMラジオの深夜番組に頼るしかなかったのだ。


わたしがテクノの新品CDを初めて買ったのは1996年の夏だった。石野卓球プロデュースのDJミックスシリーズ『MixUp Vol.3』(選曲/ミックス:ケン・イシイASIN:B0000564HL)がそれである。このアルバムに収録されたAfrika Bambaataaの「Planet Rock」〜坂本龍一「Riot In Lagos」へのつなぎは、とりわけテクノポップの音に馴染んだ耳にも心地よかった。アルバムのジャケット・アート はシリーズ全体 を通して素晴らしい。卓球は当時を振り返り「MIX-UPシリーズではもっとDJのカラーを出せるような、あるいはクラブにあまり遊びに行くことができない地方の人たちに向けた作品を出したいという気持ちが強かった」 と語っている。まさにそれにすっぽりはまった若者のひとりが、当時埼玉県飯能市にある私立高校に通っていたわたしだった。


(つづく、かも)