アパシーの濃淡



現代の先進国における比較的雇用が安定している若い労働者にとっての共通の課題があるとすれば、働くことの自分にとっての意味づけ(むろん自分が所属するコミュニティとの関係性に立脚する流動的な価値観と個人という仮想的な自意識の間で揺れ動く何か)にあるのだろう。こういった悩みに拘泥できることじたいが同時代においてもある種の特権性と対になっているのだが、平安時代の貴族が叶わぬ恋に歌を詠んだように、どんな悩みであっても、ある種の共有可能な価値観のなかでは、それ相応の切実さを帯びる。このことは確かだろう。


「アフリカの文字通りの貧困と、日本の都市生活者の貧困とは比べものにならない」という言説は、資本制下で一定の成功を収めていたわが国の成長期には説得力があったし、いまでもある程度の説得力を帯びている。しかし日毎の食べ物に事欠く貧困と、自己実現というような新たな宗教への信仰に悩む余裕のある貧困は質的に異なる。ところが貧困(類似した概念:貧しさについては橋本治の著書にあたられたい)が導くアパシーには似たものがあるのが不思議なところで、人はパンのみに生くるにあらず。されどパンを食っても、己が心の貧困に魂が食い荒らされ、自死に至ったりする。まったく困ったものである。