晴れ 16:54-17:29

 生きていることそのものが苦痛に感じられるようになったのはいつからか。元々、生きにくい人間であるとは思っていた。しかし、楽しいとか愉快だとかいうことも色々と感じて生きてきたはずで、実際そうであったと思うのだが、そういった過去があったかどうかも判然としないように感ずるのは、今日調子が悪いからかもしれない。しかし、不安だ。これから先わたしは一体何年、否、何十年と生きていかねばならないのか。この苦痛に充ちた世界で、生き延びていくことがたやすいとはとても思えないが、街に出ると、皆へ依然として歩いたり、笑ったり、何か書類を見ながら携帯電話で話していたり、彼らには何かわたしとそれほどの隔たりがあるのかと嘆息してしまう。少なくとも彼らは健康のように見える。しかし、ため息をついたところで、事態は変わらない。

 わたしには何か欠けているところがある、それも決定的に、という根拠の無い不全感はいったいどこから来ているのか。それが分かったところで、それを改める手立てはいったいどこにあるのだろう。考えつつ進み、進みつつ考えねばならないということは分かっているのだが、つまりそれはこの今わたしが感じている憂鬱さの元手のようでもある。つまり、もうこれ以上、生きていても仕方が無いという認識にわたしは辿りつく。


 休職し、何もかも存在感を失った世界―というかそれは自宅の寝室なのだが―で呆けたように、日がな寝そべり、時に眠り、感じたことは色々あるが、やはり当然とでも言うべきか自殺したいという気持ちになったことは幾度かあった。しかし、実際に決行してみようというふうには一切ならなかった。わたしは自分が、自分という存在が消滅することを望んでいるだけの臆病者過ぎないのだろうか?


 ハッタリと口先と、とでも言わなくてもそれなりの世間知でこの厳しい世の中をなんとか渡っていき、その苦難に満ちた人生においても、いくばくかのささやかな喜びや楽しみを見出して生きていくというのが、一般的な人々の人生観であろう。実際、人が簡単に死ねるわけではないということは、近所を散歩している何が希望かも分からない老人を見ていれば分かる。しかし、彼/彼女はなぜ、病におかされ、自由にならない身体を引きずりつつも、いま、生きているのだろう?そんなことは決して分からないだろう。そういうものなのだ、ということくらいしか誰もいえまい。人間は謎である。

 生きていて良かったと思えねば、これから先自分をなんとか持ち直すことは困難に違いないと思う。一時的に社会復帰を果たしても、また、病状が悪化して再度休職を余儀なくされ――やがて、会社を辞して・・・。これ以上考えたくない!今はこれ以上!最悪のケースだ。妻に、家族にかける迷惑の多大なること必至で、それを回避する為にも、わたしはいま重大な岐路にさしかかっているのだろう。
 何のために生きるかということを決めることはたやすくないし、その時々の状況や考えで、少しずつ変わっていくものだろう。しかし、この閉塞した、無情な世界の中でも、何かしら希望や理想、よりはっきり言えば、明確な目的/目標とでもいうべきものを持たねばならない。それを叶えることができるかどうかなどもちろん分からないが、今更神にすがったり、仏道に入るというわけにもいかない。なにも語らず、なにも食わずというわけにもいかない。このろくでもない人生を前へと転がしていくほかはないのだ。それが自らがこの世に生を享けた(誰にも頼んではいないのだが・・・w)からこその使命だと信じることができるだろうか。


 わたしの目の前は、今、深い霧に閉ざされている。