曇 16:44-17:29

 「わたしはいまなぜここに存在しているのか」、また、「存在とは何か」あるいは「その何かは存在しているのか」といった類の問いはいわゆる哲学では、伝統的に存在論として語られ続けてきた。この手の言説で現在でも最も難関にあるのがハイデガーであると管見の限りでは思う。
 わたしは大学時代にハイデガーの『存在と時間』という大著を精読する講義に出たことがある。中川栄照という年取った哲学科の教授が担当で、薄暗い研究室の中で、わたしは哲学専攻の(実存の悩みを抱えていると思しき)暗く表情の薄い学生たちと(当時としては)まったく意味の分からないハイデガーを少しずつ読んでいった。わたしには、ハイデガーの哲学を考える上で重要な概念である現存在(Darzain)という概念すらその講義では分からず、それから10年ほど、折に触れて思い出すことになった。「あの時分からなかった、現存在というのはいったい何なのだろう」。あなたはそんなことはありえないと笑うかもしれない。しかしわたしにはなかなかしつこい性分があり、というか気になるとある一定のことについては考え抜くのが得意で、その思想に分け入ることは無くても、「現存在」という概念が気になり続けていた。この時点でわたしが、決して一般的な人間でないということが言えるかもしれない。それを誇りたいわけではない。そのようなあり方でしか、わたしは存在し得ないというのは、ある種の人々にとってはおそらく共感してもらえると思うのだが、なかなか辛く厄介なことで、唯でさえ日常の些事、下らない人々とのやりとりに魂を削られる生活にさらに重石を載せるような、どうしようもないことなのである。哲学なんて役に立たないとか、哲学ってあるよねー、などと言いながら世事にかまけて生きていけるのであれば、それはそれで幸福なことだとわたしは思う。


 2010年のある日のこと、それは結婚したばかりの妻が子宮腺がんという重篤な病気に罹患していることが分かり、入院して暫く経ったときだが、わたしは妻が直面している死をまざまざと、自らの全身で味わい尽くすことになった。それが死そのものなのか、ということはよく分からない。いま思うと、恐怖そのものといってもいいかもしれない。
 わたしはどうも幼い頃からの思考の癖なのか、熱心に物事を考えると自他の境目を失うことがある。つまりそのとき、自分は他人に文字通り、「成る」のである。これがある種神秘的な体験であるということをわたしは言いたくないが、一般的にはそのように呼ばれるのかもしれないし、そのことは仕方が無い。だからといってわたしは別にオカルティストではないし、そういったことが人生には起こり得、また、それは再現不可能なできごとであるから、科学的には再現できないという確信があるだけである。いずれにせよ、わたしは病院に入院している妻の身となって、死に直面する恐れに飲み込まれそうになった。その時、いま住んでいるアパートメントの居間のPCの近くに、たまたま転がっていたハイデガーの『存在と時間』を偶然手に取ったのである。「存在と時間、それはつまり人生ということだな・・・」と思いながら。たぶん半ば死んだような顔つきで!
 そこで、ハイデガーの言う現存在というのは、たった今、まさにここで生き続けている=病み続け、死に続けているわたしのことであるということが得心され、わたしは突然目の前が開けたように思い、ハイデガーを読んだ。ハイデガーは、存在すること、そしてその存在することへの意識、つまり実存の問題についていやにまわりくどく書くが、彼がそのように書かざるを得ないのは、なぜかということも一瞬のうちに理解されたのである。そのような方法以外に書きようがなかったのだと。
 つまり、人が生きているということはいかようにも理屈づけがたい現象であり、それは科学でいう有機的な生命の反応ということからは、どうしても説明がつかないことである。しかし、一般的にこんにちの学問においては、定量的なデータの解析と分析が求められるわけである。この点、文学や哲学はこのような文脈においては学問とはいえない。ただし、わたしはそれに同意するものでは決してないのだが。とにかく、ハイデガーは自己の認識を学問の枠組みに押し込んで述べているということがわたしには直観された。これは喜悦にもちかい感情をわたしには呼び起こした。まさに劇的といっていい判明だったからだ。それは妻のがんのお陰とさえいえるかもしれない。


 ハイデガーの生への構えを読み解くというのは、おそらく文学的な理解にとどまると思うのだが、わたしは哲学の研究者ではないから、それ幸いといかようにもハイデガーを読むことができる。これは不逞の読み方かもしれないが、しかし、「分かる」ということが、たとえ、それが誤った理解に過ぎないとしても、わたしの精神に深いよろこびと更なる不安を呼び込むということが分かった。このことは、己の人生に対して大いなる幸いというべきほかないものかもしれない。


 しかし、知ることは己の知らぬことを知ることであるというソクラテスのあまりにも有名な命題というのはおそろしい真理だとハイデガーを読むようになってから、わたしは考えるようになった。つまり、ある種の西洋的な学問に訓練された人々は、一生、意識があるうちは、自らの知らぬ何物かをあてどなく、ひたすらに求め、それが皆目分からないままたいていの場合、恋焦がれるように、あるいは疲れ果てて死んでいくわけである。意識する/できること、そして存在するという観念を持つ人間とはなんと恐ろしい怪物かと思わざるを得ない。このことは貴いと同時に、まことに憐れなことである。