暴力をはらむ生



もうすぐ昨年に生まれた姪が1歳になる。このことはとてもめでたいことだと感じる一方で、わたしは人間が存在するということそのものが極めて暴力的な現象なのではないかと考えている。

人間が生きる上で、何か他の生命を奪って口にするということも暴力的ではあるが、そこに人間存在の究極的な美しさもあるような気がする。言葉で何かを指し示したり、切り取ったりすることも同様で、それはまっさらな鶏肉から皮を剥がして、肉と皮の捩れるところから流れる血を見たいと思う欲望につながっているのではないか。

よく考えると、人が生まれるにせよ、言葉が生まれるにせよ、そこには予め、何かがあったわけではない。それらは気がついたら一そろいの自我を与えられた人間が意志して、行う営みである。子供にせよ、言葉にせよ、それらは予め生まれること、生まれさせられることをまったく了解していない。にも関わらず、生み出されてしまうことがわたしは問題だと思うが、それを問うのはナイーブに過ぎるだろうか。いずれにしても、何の断りもなく生み出されてしまう、生まれさせられてしまう彼らにとっては、この世はたぶん座りが悪い世界に違いない。しかしまた、そのようにしてしか、わたしたちは存在することができないのであって、わたしたちは常に何かから不断無く、奪い、奪われ、損ない、損なわれ続けることで、かろうじて身を保っている。身を保っているというのも、おそらく夢、自分に都合の良い夢なのだが、そのように物語を夢見るという暴力性なしにはわたしたちは生きていくことができない。つまり、人間存在の根本に、暴力、ちからというものが常にかかわり合い続けているという真理。この真理に目を向けることができるか、あるいは目を背け続けるかで、その人の言葉の営みは変わる。言うまでもなく、多数派は後者である。そういった細かなことを気にしていたら、とても生きていかれない、あるいは全く関心が持てないような連中である。しかし彼らも生きる暴力であることには変わりがないのであって、それに自覚的である人々にせよ、そのことから何らかの利益を受けるということはほぼない。

人の生に暴力が内包されており、その行き着くところは死である。だから、後者の連中もいずれこの問題とは向き合わざるを得なくなるのだが、そのことから逃れ続けようとするのも、またいとおしいとわたしは思わざるを得ない。このように不可解な面々が集う世界というのが、だから全く手に負えないことは不思議ではないのだが、それすら気づかないで一生を終える人々が無数にいることにも、また奇妙で、いくぶんの面白さがある。生きることにもし醍醐味があるのだとするのであれば、このあたりを噛みしめ、味わうことに尽きるのではないだろうか。