[随筆]音楽の永遠性をめぐっての一考察

オランダの作曲家ピート=ヤン・ファン・ロッサムさんが来日されており、2月末に世田谷区で音楽の永遠性をめぐって講演をされると聞いたので少しばかり音楽とその永遠性について考えた。

音楽の永遠性について考える前に、永遠性という概念そのものについて触れておく必要がある。永遠性とは「いつまでもその価値や存在などが失われない性質」(https://kotobank.jp/word/%E6%B0%B8%E9%81%A0%E6%80%A7-442972)のことである。この永遠性という概念は歴史的に見ればどう考えても宗教との結びつきが深い。西洋音楽についていうと、その宗教というのはキリスト教のことになる。そもそも、神は永遠(性)そのものなのだ。「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」(黙示録22:13)

さしあたり西洋音楽における永遠性の表現として思いつく作品を2つばかり挙げておく。本当はここでバッハの話をしたいのだが、バッハの話をするときりがなさそうなので、そこはぐっとこらえて、まずはワーグナーの作品である。

ワーグナー「皇帝行進曲」(https://en.wikipedia.org/wiki/Kaisermarsch)は普仏戦争(1870-71)の勝利を祝い、ルターの作詞・作曲による「神はわがやぐら」(1527-29年)をモチーフとして引用している。引用元の讃美歌は神の勝利とその永遠性について歌っている。中高6年間ルター派の学校で過ごした者としてはこの曲はなんといっても体育祭でよく歌われた記憶がある。歌詞はもうほとんど忘れてしまったが、メロディはいまでも空で歌える。ルターは宗教改革者というだけではなく、耳に残りやすいメロディを残した作曲家でもあるのだな、といま改めて思う。

次に挙げる作品はメシアン「世の終わりのための四重奏曲」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E3%81%AE%E7%B5%82%E3%82%8F%E3%82%8A%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E5%9B%9B%E9%87%8D%E5%A5%8F%E6%9B%B2)である。この管弦楽曲はピアノ、ソプラノクラリネット(B♭管)、チェロ、ヴァイオリンによって演奏されるが、1940年にドイツ軍の捕虜の一人となっていたカトリック教徒のメシアンによって収容所内で作曲された。初演も、その収容所内で行われている。全8楽章構成でメシアンは「ヨハネによる黙示録」からインスピレーションを受けて作曲したようである。

ここで紹介したワーグナーの曲は、端的にプロイセン皇帝の勝利を、神の永遠の勝利に重ね合わせて寿いでいる。また一方、メシアンの曲では、印象的な最終楽章でピアノとヴァイオリンにより神の不滅性(永遠性)がゆるやかに賛美されている。このように特に西洋クラシック音楽の専門家でなくとも、その中に永遠性というモチーフを見つけることは非常にたやすい。むしろ音楽そのものに対して、永遠への祈りは満ちている。というか、言葉を変えて言えば、永遠をテーマにする音楽は掃いて捨てるほどある。それほど典型的な主題なのである。それらの作品には優れたものがあり、また、陳腐なものもあると言っていいだろう。つまり、専門家が音楽と永遠性について語るとなればその語り口・選曲ともにとてもセンスを求められるのだ。ロッサムさんは作曲家のフェルドマンから大きな音楽的影響を受けているそうなので、彼の音楽と結びつけて永遠性ということが語られるかもしれない。いずれにしてもどんなレクチュアになるのか楽しみである。