北野勇作「かめくん」(徳間書店)読了。

これもまろんさんにお借りしたものだ。


ぼくは中学生以来、SF小説には、ほぼ縁の無い生活を送っているとばかり思っていた
のだけれど、知らず知らずの間に、SFの基本的枠組みたいものは一応齧っていたらしい。
小説で読んだのは、市立図書館にあった世界名作SF集みたいなものと、椎名誠星新一
筒井康隆あたり、SFマンガと言われて浮かぶ作品が「鉄腕アトム」「AKIRA」「新世紀
エヴァンゲリオン」みたいな感じだ。そんなSFに対して決して意識的ではない人間にも
この「かめくん」という作品がもつ品の良さは非常に良く伝わってきた。かめくんは
とても地味だけど、確かに人を惹きつける魅力がある。この作品の魅力は決してSFで
あることにあるのではなくて、あくまでも作品が、このかめくんの世界であることに尽きる。
そういう意味では純文学なんじゃないかなーと思ったりした。ジャンルはどうでもいいのだけど。


最初読みはじめたときに、「わあ、メタメタしてる」と思ったのだが、こういうメタSF的
(先に読んだ舞城も分野は違えど似た感じがある・彼はあえて軽薄な味を出しているが)
視点というのは今、ごくふつうのものなのだろうか。まあそこを詮索しても、ぼくの作品
自体の評価には直結しないのだけど、形式としてそういうものが定着しているのかどうか
というのは気にならないでもない。そんなことをいってしまうと、自分ではあまり本を
読んでいないことを露呈してしまうだけなのだけれど、本当だからしょうがないな。


北野は、実に繊細な筆致で、とくにしんとした風景描写に極めて優れているように感じた。
かめくんはどうやら喋ることの出来ないマシンのようだが、その設定も小説世界の静謐さを
高めるのに一役買っている。とにかく、おしつけがましくないキャラなのだ。淡々としている。
それで自己言及するのだ。自己言及というか、自分自身を探すのだ。アイデンティティ
獲得しようと己を尋ねる。ここらへん、ロボットが「Who am I ?」と疑問を抱いて、自らの
存在に苦悩したりする、SFの王道だと思うのだが(といってぼくの頭に浮かんでいるのが
手塚治虫鉄腕アトム」であることをご承知頂きたい)、幸か不幸か人間でもロボットでもない
かめくんの情緒は徹底して薄いのだ。それは人間によって作られた一種の工作機械(カメ)だから。


アトムと違ってはっきりと迷えない彼には、そんな自分自身への穏やかな諦観がある。
彼が迷えないのは、生きる世界の時代のせいかもしれないし、あるいは自意識がいくぶん希薄に
設定されているせいかもしれない。ただ自分があくまでも使いまわしの利く「かめ」に過ぎないこと、
自分自身のささやかなメモリー(思い出)も簡単に第三者の手によってリセットされ得ること、
そういうことを次第に思い出して、迷うことなくそれらを受け入れていくかめくんは切ない。
映画「ブレードランナー」の名セリフを思い出す。「思い出もいつか消える」。思い出が消えると、
かめくんは消えてしまうのである。ぼくたちも時に思い出をリセットしたくなるけれど、なぜか
リセットしたい思い出であればあるほど、何かの拍子で思い出したりして、それは、かめくんの
それに比べるとずいぶんと湿り気を帯びている。かめくんは、果たして涙を流すことがあるのだろうか。


寡黙なかめくんの目を通して、淡いノスタルジーを感じさせる近未来(?)の大阪は、どこか
不穏な箱庭の様でもあるけれど、そのひっそりとした静けさになんとも言えない魅力がある。
その魅力さえも、次第に作者自身の手によってあやふやにされて、世界とはいかに不確かなもの
であるか、ということが繰り返し繰り返し主張されるのだが、それすら気にならないほど、
その街はどこか魅力的でぼくはつい行ってしまいたくなる。できることなら、クラゲ荘に入居して、
暮らしたいものだ、そのときはやはりきちんとした甲羅を背負ったかめになって行きたい、などと
思わないでもない。でもそんな魅力的に感じる街でさえ、とても不確かなものなんだよ、と北野は
かめくんを通して言っているのに違いない。これはどう判断すればいいのだろう。彼は、かめくんを
通してぼくらを叱っているのか?「きっと叱っているのだ」と思ったのだとしたら、ぼくにはそう
読み取れたということなんだろうけど。そんな感じでめずらしく、作品世界に深く潜航してしまった。


ソフトではあるけれど、繰り返し出てくるかめくんの自問自答のせいで、奇妙な程の葛藤に
ページを繰る手を何度と無く休めたが、それを上回るかめくんの沈黙の雄弁さにぼくはついホロリとした。
なんだか良質のシンガーソングライターのアルバムを一気に聴き終えたような気分だ。
優れた音楽が、音と音との間のひびきで歌を歌うように、どこか冷静な視線を感じさせつつも、
最後の最後で読み手の胸を打つ「かめくん」を書いた北野勇作に、あなたはずるい!と
なんとなく言ってみたい。彼の持つ、じっくりとした知性はおごりたかぶることなく偉大だ。
興味を持たれた方は、ぜひ作品を手にとって読んでみてほしい。