世捨て至難

最近、電車の中で、以前友人に作ったジャズのコンピレーションの
コピーを聴いているのだが、何度も何度も繰り返し聴いても全く飽きず、
まるで空気のように毎日聴けてしまい、これはおかしい!と思って、
一度冷静に聴いてみたら、どう考えても毎日歩きながら、そして電車に
乗りながら聴く音楽ではないような気がしてきた。どうにも「あの世
感」ぬぐいがたい彼岸の音楽なのである。いまさら言うのもなんだが
'30-'40年代のスウィング・ジャズというのはある種の人間を骨抜きに
する力があるようだ。これは現実に拮抗する種のものではなく、むろん
夢の世界に誘う強烈なファンタジーとして機能する音楽であり、改めて
考えてみると、この種の音楽を自分の友人知人周りの人に薦めることは
ある種罪悪なのでは、と思うにまで至った。できることならこの種の
音楽を聴くな、とはいわぬまでも、決して音楽に耽溺してはいけないのだ。
麻薬と同じなのだ。うう。そういいつつ今日も音楽に溺れる自分が居る。

そういう音楽を聴いていると、では神仏や森羅万象から世捨て指南を受け、
出家でござる、という風に至るかというとさにあらず。いや、むしろ種種の
欲望に溢れているといってよいと思う。ああ、でも分からない。一体いつ
からだろう、手に入れた銭こを残らず音楽に使うようになってしまったのは…。
もはやここまで来てしまっては、戻れないのである。分からないけど。音楽
以上に魅力的なナニモノかが現れたときには、もしかしたらそちらに中毒に
なるのかもしれないけれど。こう書きながらまた自分が基本的に依存体質で
あることも再確認してしまったりするのである。拙い私小説ごっこなど、止め
たいのだが、ウェブ日記など拙い私小説ごっこのオンパレードだ。誰も読んで
いないと思って、己が内をぶちまけるのも笑止千万かつ醜悪の極みであることは
知ってはいる。からして、「わたくしを笑っていただきたいのであります♪♪
ホレホレ」などと裸踊りも出来ずに、ぼんやりと玄関にたたずむばかりである。

音楽は裏切らない。それが一番音楽の良いところだ。こんなことを書くと、
いかに自分がダメなのかまたもや再確認しなければいけないのだが、もう
それに尽きるのだ。音楽の向うには、その音楽を作り出している音楽家たちが
いる。レコードやCDを作った人間がいる。それを店に卸す人間がいる。
それらを店で売る人間がいる。そんなことはもちろん分かっているのだ。
しかし音楽と向き合うときは常にひとりであって、その音楽は買う前から
すでにわたしのなかで響きはじめている。中にはすでに己が内に存在する
音楽もある。もしあなたがいっぱしの音楽ファンであると自認するならば、
そのような感慨に耽ったことがあるだろうと思う。それほど音楽ファンという
のは、自己中心的な連中なのである。と、ここで、突然話を一般に敷衍して
わたし自身を韜晦するというのもいささか汚いやり方だと思うので付け加えて
おく。わたしは音楽一般(基本的にあらゆる音声)が好きで、その音楽が
好きな自分を基準にしてしか考えられないのだが、音楽が好きな人間という
のは、得てして他者と交わることになんらかの恐怖困難を感じ、自らの内に
もぐり、己を探求することを趣味にする人種なのである。あるいはその音を
寄り代に、強烈に自己を縛る自意識からの脱却を図ろうとする人一倍自意識の
強い連中でもある。とくに、音楽を愛好する者の中でも、レコードを
収集したり、ジャンルを越えてさまざまを渉猟する連中は、レコード屋という
「わたくしの異世界」で「わたくし」を探す行為を飽きもせず繰り返している
不毛な人間であるという一側面があることは、決して否定できるものではない。
と、なぜかかなり徳の低い文章を書き連ねてしまった。これは簡潔に述べると、
わたしがわたし自身を自己否定したいだけの駄文に過ぎない。どうもそういう
ことがしたくなって堪らない今日この頃のようである。季節のせいか?まさか。

むろん、上に述べたことと同時に音楽から受ける一切の喜怒哀楽や音楽を通しての
人と人との交わり、さまざまな恩恵があることもむろん承知している。常に常に
このようなことを考えて生きているわけではないが、ときどきそんなふうに楽観的で
先を見ることをしない自分にうんざりすることがあるのだ。などと書きつつ今も
部屋のスピーカーから琉球民謡が流れている。この愚鈍さにミューズよ天罰を。
毒を食らわば精神をすこし身につけたほうが良いようだ。音楽の美に殉ずる
つもりはないにせよ、これからイベントをやろうという今の時点にあって、
あまりにも後ろ向きな気分は非生産的に過ぎる(と、自己完結してみるテスト)。

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以下のテキストは11月17日開催のイベント「華火 in planetarium」の構想段階で、書き溜められたものの一部を公開するものである。


★★★★



いつも雨が降りしきる交差点を左に曲がると、紅い看板が出ている小さな喫茶店がある。昨年の夏、わたしは、ここである一人の女に出会った。その日はやはり雨が降っており、わたしは店主のいない店の中でひとり洗い物に専念していた。とても強い雨の中誰か客が来るとも思えなかったからだ。店の時計の秒針が刻む音と、屋根を叩く雨音と、わたしが立つ洗い場に響く水道の音。その三つが奏でる静寂のアンサンブル。しかし、それはやがて破られた。彼女はびしょぬれでやってきた。傘を手にしながら、それを差していなかったかのように見えた。大きな両の瞳は、思う存分泣きはらした後のようで、真っ赤に充血していた。陶器のように青白く濡れた頬を、弧を描いて次々と滴が流れ落ち、店の床に小さな水たまりを作った。わたしは彼女が店に入ってきてから、しばし我を忘れて立ち尽くしていた。それは彼女が今までに出会ったことのない種類の輝きを放っていたからだ。その瞳、その鼻、その頬、その唇、その耳、うっすらと浮かび上がる鎖骨の形、薄いカーディガンの下で激しく汗をかく、肩から二の腕のライン。喉の奥から自分の鼓動が聞こえてくるようだった。控えめにいって何一つ申し分がないような気がした。むろん、その申し分無さは、恋といって差し支えないものだろう。わたしは一瞬の間に恋をしたのだ。


しばらくして彼女は体を拭くものを求めたので、店の奥の戸棚から大き目のタオルを出してきて、差し出した。彼女は、見つめられた誰もが必ず戸惑うような種類の完璧な微笑でそれを受け取った後、やっと注文をした。「ラム入りのコーヒーってある?アイリッシュコーヒー...とかさ?」。


彼女は店に居る間、コーヒーを啜りながら、その夏に見た地元の河川敷のハナビ大会の話をした。彼女のいう「地元」が果たしてどこを指すのか、そしてそのハナビ大会というのは本当のものなのか、あるいは彼女の頭の中で作られた空想のハナビ大会なのか。それは別にどちらでも良かった。わたしは
冷静を装いつつ、彼女の顔にしっかり見惚れながら、時々、相槌を打った。彼女は自分の話を誰が聞いていようといまいと、かまわないようだった。まるで空気に向かって話しているかのように見えた。実際、彼女の瞳は確かにわたしの顔へとまっすぐに向いていた。しかし、彼女の顔にはその話にわたしがどう感じようと、あまり構わない、という気持ちが濃厚に感じられた。「わたしは、実はあまりハナビが好きじゃないの。とくにハナビ大会は好きじゃないの。もの凄く人が出てきて、混雑するでしょう?人いきれだけで、もう、うんざりしてしまうのよ。もうハナビなんてどうでもいい、って気持ちになっていつも途中で帰ってしまうわ」。「でも行くんだね?」とわたしは訊いてみた。彼女はまるで曲がり角を曲がって突然誰かに出くわしたときのようなちょっと大袈裟な驚いた笑顔を見せて「そういえば、そうね」と答えを返した。「わたしはなぜかハナビ大会に惹かれるのよ。その規模が大きければ、大きいほどいいな、ってなぜか思ってしまうの。会場にいざ足を運ぶとなるとうんざりするのにね。でも、去年の夏に、わたしは初めて地元のハナビ大会に行ってみたのよ。いままで地元のハナビ大会なんて、きっとちゃちなものだろうと思って、ハナビ大会の勘定にも入れて無かったわ。でもね、それは…とても小さな川の…河川敷でやるんだけど。そこで打ちあがるハナビをすごく近くで見れたのね。それが…何か…凄く良かったの」彼女はそういいながら、とてもうれしそうにゆっくりと微笑んでカップに残っていたコーヒーを飲み干した。あれだけ激しく大地を叩いていた雨もいつのまにか止んでおり、彼女の顔にうっすらとついた涙の跡ももう、わからなくなっていた。彼女はやがて店を出ていき、わたしは彼女の残した灰皿とカップをキッチンへ下げた。久しく鳴ることの無かった胸の早鐘はまるで火事でも知らせるように激しく鳴りつづけ、わたしの胸をゆっくりと、しかし確実に締め付けていた。やっとの思いで息をしながら、わたしはキッチンの前で思った。来年でもいいし、再来年でも、もっと先でもいい。きっと今日あった出来事を、きっときっといつか…いつか、うすら寒い秋に思い出すだろう。もうその時、今日の細部は思い出せないけれど、それが静かにはげしい輝きだったことが分かる。そう思うやいなやわたしの心の中に中くらいのハナビが上がった。でもそれは、あがってすぐに消えてしまう。まるで幻のように。誰も居ない店の床に残る小さな水たまりの跡を見つめながら、わたしは思った。「これが夢であればいいのに」と。しかし彼女は確かにずぶぬれで店にやってきて、そして雨が上がると時を同じくして店を出ていった。わたしの心を激しくかき乱して。取るに足りないハナビ大会の話をして。ただ
それだけの事実がわたしの胸を強く締め付けた。「これが夢であればいいのに」。わたしの心の中に中くらいのハナビが上がる。それが大きな花を描いて、消えていく子細がわたしには手に取るように分かってしまう。今日も、わたしは喫茶店の扉に手をかける。いつも雨が降っていようと、あの女は二度とわたしの前に姿を現すことはないだろう。それがわたしには分かるのだ。彼女の中でもきっとハナビが上がっているから。わたしとは違う色の、違う形の、違う種類のもっと美しいハナビが。