HOSONO HOUSE

ぼくは埼玉県狭山市に住んでいる。狭山市は人口15万人を越える東京圏の1ベッドタウン。近郊の所沢なんかに比べるとイマイチパッとしないし(所沢がパッとしているかどうかって話もあるが・苦笑)、主力産業もうーん一応お茶を栽培している。畑もそこそこあって、農産物も東京の卸市場なんかに出荷されているらしい。昔、小学校の頃、地域の歴史を学ぼう、みたいな授業で勉強したのだ(笑)。あとは、工業団地がいくつか点在している。これはおそらく市が何も産業がないので(苦笑)昔、企業を誘致したのだろう。まあ、とにかく地味というか活気がないというか、そういう点では他にひけをとらない(そういう言い方もどうかとは思うのだが・苦笑)地味な町である。市政にまつわるゴシップなんかもあるにはあるのだが、そこらへんは本題から大きく離れるので割愛しよう(笑)。


奇しくも風街まろんさんが今日の日記で、写真家の野上眞宏さんが近頃出版された「HAPPY SNAPSHOT DIARY」(ブルースインターアクションズ)に触れられているが、この写真集には、狭山にかつて存在したアメリカ村の様子がノスタルジックに、そしてどこか独特な匂いと共に、切り取られている。


さて、唐突ではあるが、池袋駅から西武線で40分ほど運ばれると、稲荷山公園という名前の駅につく。駅のホームのすぐ向うは、航空自衛隊の入間基地だ。軍事ヲタ(?)の人ならここで年に一度開かれる航空ショーを一度は観たことがあるに違いないと思う。ブルーインパルスという精鋭部隊による曲芸飛行が行われるのだ。近所に住んでいて、自衛隊にも興味がないと、ただの騒音なんだけれど(笑)。まあ、そんな自衛隊の基地は、もともと在日米軍の駐屯したジョンソン基地という名前で、70年代後半までは、アメリカ軍によって使用されていた。70年代初頭から、徐々に土地が日本側に返還されて、狭山市がその返還された土地にあった米軍属の住居を、日本人に安く開放したのが、今回の話の中心である、アメリカ村のはじめらしい。


アメリカ村には、当時ヒッピーっぽい人間がたくさん都内から移り住んだという。それに関しては、村上龍ポップアートのある部屋」(講談社文庫)に少し記述が見られる程度だったのだけれども、細野さんたちと行動を共にした、野上さんの出版物「レコード・コレクターズ」誌上で連載された「はっぴいな日々」(既に単行本化されている)と今回の写真集の発表によって、今後一部好事家の間ではまた少々話題になるかもしれない。


回りくどいので一気に行こう。日本のポップス史上、ていうかSSW史上の名作としてぼくが疑わない(こういう大仰な物言いはしたくないのだが、まあやむなし)細野晴臣の「HOSONO HOUSE」が1973年(嗚呼なんと30年前だ)、当時アメリカ村にあった氏の自宅で録音された。めんどうくさいのではしょりたいのだが(苦笑)、録音に参加したメンバーは今も昔も知る人ぞ知る(?)キャラメル・ママこと、後のティンパンアレイの中核を担うメンバーたち。彼らがどんな連中なのか、細野さんが一体どんな人なのかということを知らずともこのアルバムを一聴して頂ければ十分音楽の魅力は伝わると思う。心穏やかにゆっくりとした気分になり、そして時として楽器の織り成す絶妙のグルーヴにどきりとさせられること間違いない。


篠原章(氏がサエキけんぞうのいとこであるなんてのはどうでもいい話だ)は、この「HOSONO HOUSE」に関して、次のように述べている。



1970年代前半というのは、音楽を含めたライフ・スタイルとしてのアメリカが東京とその周辺に素直に存在しえた最後かつ最良の時代だったと思うのだが、細野はこの作品のなかに<最後かつ最良のアメリカ>への思いを込めたのである。アメリカ幻想に土や草の香りを絡めたような印象の濃いサウンドだったので、モチーフはカントリーと片づけることはたやすいが、細野の土の香りに対するこだわり方は、あくまでもナイーヴな都市民の感性に訴えかけるものだった


http://www.daito.ac.jp/~akirashi/favorite.html




なかなか的確な評だと個人的には思う。で、要するにアメリカ村には当時様様な得体の知れない、芸術家(あるいは芸術家っぽい人達・非サラリーマン・笑)が集まりゆるやかに暮らしていた(もちろん当時はみんなジャンキーで「ゆるやか」だったと思うんですけど・苦笑)。そんな一音楽ファン(苦笑)としては、そしてまた奇しくも狭山に住んでいるものとしては、見過ごせない場所なのだ。まあ、大方の人にはどーでもいいことだとは思うんだけど。ホントに。


で、このアルバム録音当時の独特の雰囲気というのは、基地の返還後20年以上が経過していることに加えて、いまその頃をしのばせる面影がほとんどないこともあって、偲ぶにも偲びようがない。音楽を聴いて、茫洋とした思いを馳せることができるだけだ。ちなみに以前、知り合いの細野ファン数名を案内したときは、先の公園内に残っていた玄関脇にハウスナンバーの書かれたくちかけた家々やその近辺にある平屋の古いアメリカンハウスを案内したのだが、それらのほとんどが将校クラス軍属が居を構えた高級住宅地の慣れの果てだと最近知った。


また、ここのところ分かった情報によれば当時のアメリカ村は現在の狭山市入間川4丁目あたりをさすらしく、細野ハウスもつい最近まではまだ建物があったらしい。加えて、入間側のハウスには(当時払い下げの住宅をハウスといったんでしょうが)当時、西岡恭蔵(故人)も住んでいたそうな。小坂忠氏も現在所沢の某教会を拠点に活動されているが(これは氏の牧師としての活動で、音楽活動とは別物ですが)、氏が所沢に落ち着かれたのも、やはり狭山からわりと近くて穏やかな土地柄に惹かれたからだろうか(まあ、当時はかなり田舎だったと思いますけど、一部の都会人はそういうのに憧れたのだな)。細野さんのように当時住みついた人々も、結局は都会人でそのうちみな時を置いて東京へ戻っていってしまう。確かいろんな人がいたと思うけど、省略(苦笑)。


今、当時の資料にあたって、アメリカ村を調べるにしてもあまりにもその雰囲気はつかみづらく、ぼくは今回、野上さんの写真集を立ち読みして(買えよ・笑)そしてまた何の気なしにウェブで見つけた記事からしばし遠い昔の狭山に思いを馳せたりしただけれど、意外な事実をここ数日ネットの掲示板から知ることになって、「ああやっぱり細野ハウスの実物は見なくてよかったのかもなあ」などと極めて個人的な感慨に浸っているというだけなのだ。この話には最初からオチなんてないのだけれど、明日は「HOSONO HOUSE」を聴こうと思う。30年前のアメリカ村を思い浮かべながら。