村上春樹/柴田元幸『翻訳夜話』読了



読んでいる間に、胸が痛くなってきた。おうおう唸りながら読んだ。最近本を読むときはいつも唸ってます。


「だからビートがない文章って、うまく読めないんです。それともう一つはうねりですね。
ビートよりもっと大きいサイクルの、こういう(と手を大きくひらひらさせる)うねり。
このビートとうねりがない文章って、人はなかなか読まないんですよ。いくら綺麗な言葉を綺麗に並べてみても、
ビートとうねりがないと、文書がうまく呼吸しないから、かなり読みづらいです。」(p.45)


「いろんな誤解があって、たとえ誤解の総量が少ないにしろ、そのひとつひとつの誤解が
それぞれ違う方向を見てたら、できた翻訳というのは、あまり意味がないと僕は思うんですよ。
だから、たとえ偏見のバイアスが強くても、それが総体としてきちっとした一つの方向性さえ指し示していれば、
それが僕は、翻訳作品としては優れているというふうに思うんですよ。音楽の解釈・演奏と同じですね。」(p.192)


「自分とカキフライの間の距離を書くことによって、自分を表現できると思う。
それには、語彙はそんなに必要じゃないんですよね。いちばん必要なのは、別の視点を持ってくること。
それが文章を書くには大事なことだと思うんですよね。みんな、つい自分について書いちゃうんです。
でも、そういう文章って説得力がないんですよね。」(p.236)


注:発言はすべて村上によるもの。適宜省略改行した。