映画の栄華

最近ビデオで観た映画のこと書きます。



一本目は「ティファニーで朝食を」。1961年のアメリカ映画。
監督はブレイク・エドワーズ。ご存知主演は、オードリーです。


この映画のなかで注目したいのは、オードリーの階上に住むウミヨシという日本人。
でもなくて、オードリーが飼っている猫なんだけど、この猫最初、オードリーは「名前がないの」
「かわいそう」と言っていて(野良を拾ってきたらしい)、これは、もうオードリー自身が
娼婦であって、「名前のない女」であるということを暗示してるわけです。
内田樹せんせいの指摘を待たずとも、「猫」(pussy cat)が女性性の隠喩として
映画内で使われることは珍しくない。(pussyは言うまでもなく、女性器をさす隠語です)。


ラスト間際で、タクシーから逃がした「猫」を雨に打たれながらオードリーが
探しに行くシーンがありますが、これは結局、名無しのpussy catを今、はっきりと
必要なものを感じた、ということから、オードリーに好意を寄せる三文(?)小説家の
愛に応える、という物語とパラレルな構造になっています。「ティファニー」を
要約すると「身の丈にあったささやかな、しかし深い愛に気づき、女として
男の求愛を受け入れる物語」というちと陳腐な説明になってしまうけれど、
こうやって映画の構造を考えながら観ると、なかなか悪くないものです。
というか、この映画が仮に陳腐な筋書きだとしても、オードリーのまぶしいまぶしい
造形美が、ストーリーもなにもかもどうでも良くしてくれる部分が大きいのですが・・・。


二本目は、ヒッチコックの1954年作品「ダイアルMを廻せ」。よくできた映画です。
女優のことばかり言うのもなんですが、やがてモナコ王妃となるグレイス・ケリー
美貌がびぼびぼ言っている感じで、こんな感じのレディーが妻になったら
誰かに奪われないか気が気じゃないだろうと思わせる設定で、まあ、この物語の
筋書きそのものが、不倫関係になっちゃった妻グレイス・ケリーに気づいた夫が
ひそかに妻を殺そうとたくらむ、というものなのですが。


おもしろいのは、なぜ、女を殺してしまうのか、という問題で、たとえば
妻を奪った男(以下間男)を殺してしまう、というのが、ぼくがもし不倫されたら
やってみたいなと思う復讐方法ですが(もちろんウソです)、なぜ、男は
妻を殺そうとするのか。単純に、女性恐怖ということがあるのかもしれません。
夫はとても理知的な男で、妻を殺すための方法や、証拠隠滅を冷静に考え、行う
(劇中ではむろん来るべき未来に破られるための証拠隠滅なのですが)けれど、
妻に対する愛というよりはむしろ、支配欲のほうが旺盛であった。
そんな支配したい夫は、自分の支配したい「妻」が、他の男に支配される
(ようは不倫ですが)、そんなことに耐えられなくなって、支配する者を
殺すよりも、「支配される」女(妻)を殺したくなっちゃったのかな、みたいな。
支配しようとする間男への憎悪よりも、「支配される」女(妻)への憎悪が強い、
というところがなんともいえず興味をそそられるのですが、夫が妻への
支配構造じたいの破壊をめざすということは、彼自身が無自覚ではあっても
いくぶんか破滅願望もあったのでしょう。
(ストーリー的には、彼がかつてプロテニスプレーヤーで、妻がその彼に尽くしていた
けれど、ほかの男を好きになってしまったというような過去が語られて、「強い夫」でも「ダメ夫」感が暗示されます)


で、「ティファニー」には小説家が出てきたけれども(あれは、原作者である
カポーティーをモデルにしているに違いないけど)、こちらでも小説家がでてくる。
厳密に言うと、推理小説家で、彼がいわゆるひとつの間男なんだけれど、実際は
グレイス・ケリーを彼女の夫よりより深く愛していて・・・みたいな設定であるわけです。


この二つの映画で、表現者の正当性というか、ある種のプライドの誇示があるというのは
とてもおもしろくて、おそらく「ヒューマニズム」というものが、まだわりと
素朴に信じられていた時代であったのだろうし(その素朴さが、今観ても
力強く、ときに胸を打つわけですが)、映画産業自体の隆盛している雰囲気を
感じなくもありません。なんとなく映画産業に携わっていた人間がみな自信に
満ち溢れていたんじゃないかな、と感じさせるような気分になるわけです。

まとまり悪いですが、明日に続きます。明日はたぶん「マトリックス」のお話。