DCPRG『構造と力』感想



やっとDCPRG『構造と力』を手に入れて、聴くことができた。力強く、ヘルシーで、知的な雰囲気
漂う良いアルバムだと思う。評価の高い「構造5」は、ファンキーが収録曲のどれよりも分かりやすく
提示された楽曲で、やはりぼくもとても好きだ。しかし、『アイアンマウンテン報告』と比べると
ずいぶんと音質が違うなあ、と思う。あの不健康にわだかまるヴァイブはかなり消えてしまって、
まるでひきこもり精神が、ひさびさに玄関を出て、深呼吸しているような作品だ。メランコリーが
無くなったわけではもちろんないけれど、表現の仕方として、外へ向かうようなパワーを感じる。
具体的には、アルバム全体がよりダンサブルになっている。そして引き締まっている。そんなちょっと
ワークアウトな雰囲気も、先日汐留で聴いたスパンクハッピーとパラレル感がある。要は、どうにも
身体重視。都会人(脳化人間)はフィジカルをめざす、といったポーズ(?)は、菊地成孔のコアにある
80sへの強烈なオブセッションに通じるのかも知れないが、批評家じゃない人間が聴いてる分には、
どうでもいいことだと思う。最高。というわけで、8日のリキッドルームがたいへん楽しみ。


菊地さんがずっと「訛り」ということについて言及していて、キューバ人ドラマー、エルナンデス
セッションしたあたりから出てきた「他殺」というフレーズと共に、おもしろいな、と思っているのだけど
(デートコース1stが「自殺」的であるとしたら、2ndは「他殺」的である、みたいなことはもう誰かが
言ってそうだ)ああ、訛りということについて考えると、やはりおもしろい。たとえば、「訛り」というのは
実際の運用、ということなので、言語であれば、方言になったり、文法間違い、音の脱落や入れ替わりという
ことになるんだろうけど、たとえば、これが法律であれば、民法、その適用、刑法、その適用、といった
ような構造になって、要はなんでもそうなんだけど、何か決まりきった体系を適用するとき、必ず間違いが
生まれるということ。法律で言えば、冤罪、医療でいえば、誤診。こういったことは、「基本的に無い」ことに
されている、世の中では。だから、この間の、若輩3人医師の杜撰手術失敗事件みたいに、あんな事件が起きると
ひとはみな「ひでえなあ」「こん畜生め」「こわいわねー」「マニュアル見ながら手術って、ありえないだろ」
なんて意見をさまざま思ったり、述べたりするのだろうけど、そこなんだ。おもしろいのは。あってはならないこと。


世間では、多くの人は、やはりちょっと突飛なことを言ってしまったり、やってしまったり、ということ、
つまり「間違い」をできる限り避ける。「責任」をやはり考えてしまうので、「穏便に。穏便に頼む」というような
心理でどうしてもものごとを運んでしまう。躊躇というか「ためらいの心理学」を参照して、なかなか冒険はできない。
確かに。ミスを犯せば叱責を受ける。下手すれば、首になっちゃうかも。商売は、まずお金が絡むもの、そして、
信用が絡むもの。だからどうしたって「自殺」的な振る舞いが増えてしまう。仮に彼/彼女が「他殺」的に振舞っていたとしても、
その人が、毎食後、胃薬を飲んだり、トイレに駆け込んだりしていたら、結局「自殺」的に振舞っていることになる。
おとなだから、「しょうがねえんだよ。お給金もらってんだからよ。それにこの仕事やめてオレみたいなやつがどこに
行けるってんだよ」という独白をかみ殺しながら、多くの人は、きょうも職場に向かう(のかもしれない)訳だけど、
「疲弊」で済んでいれば、まあいい。けど、その内圧が高まって、おかしくなっちゃうひともいるだろう。ワイルドを
どこまで志向できるか、というのはやはりひとによって違うし、いろんな内圧でにっちもさっちも行かなくなって
脳内エラー信号が出過ぎちゃうと、ふらふらと鉄道線路へ飛び込んで、肉塊になってしまったりするのだ。電車を利用し
わりと頻繁に人身事故を体験すると、そんな風に、おのれの妄想力が喚起されないでもない。死にたい、というよりは、
思考を放棄したい人間のオーラを強く感じる今日この頃だ(なんかえらそう・ただ飯食いのヴンザイで)。


楽家が、システムの内部にいるのか、外部にいるのか、どうなんだろう、という疑問はさておき(そのどちらでも
あり、どちらでもないだろう、と適当にわかったようなことを言ってみる・センス勝負だから、他殺的に厳しい世界
ではあると思う)「エラー」を音楽は認める。「エラー」を認めない音楽なんて、そんなのつまんないから誰も聞かない。
すぐに思いつくのは「ブルーズ」だ。「ブルーズ」は、最近の嫌な流行言葉を使って言えば「負け組の音楽」であって、
その血脈はとうぜん「ジャズ」にも受け継がれている。「ジャズ」はずいぶん洗練されているかもしれないけれど、
ひいおじいさんくらいまでさかのぼれば、田舎の養鶏場で毎晩深酒して妻を殴っていた絶倫おやじ、名前はブルーズ・クロスロード、
みたいなもので、やはり血はあらそえない、のだけれど。まあ、都会っ子である、ということは、いろんなものを見たり
聴いたりして体力があるのだ。「エラー」を美的感覚に昇華する作法、っていうのは、たぶん「ジャズ」のいちばん
すばらしいところで、気分や体調によって、それに深く打たれて浄化される感覚を、多くの人は覚えるものじゃないかなと思う。


ぼくが「ジャズ」から教わったことといえば、まあいろいろあるけど、美しいものを見つけていこうや、ということだろうか。
これは「自殺」的な世界であろうと、「他殺」的な世界であろうと、音楽の言わんべきところはたぶん同じなのだ。
美しいものを見つけて、それを追い求める人間を傍から見て、ハッピーに見えるかどうか、というのは一概に言えない
だろうけど、やはり何かをそれなりの必死さで追い求めている人間がもたらす清清しさというのはあるわけで、
そこにはむろん葛藤もあるのだけど、体力つけてそこらへんに向かってみようよ、というマニフェストが、ええと、
DCPRG『構造と力』なんじゃないかなと思うのですよ。まあ、そう思いたい欲望があるのかもしれんけど、欲望は
適度に肯定したほうが、楽しいので、それで良いのです。bassline should change your lives and listen !