綿谷りさ / 蹴りたい背中(河出書房新社)



発行から1年経たずに106刷というのが文藝書としてはまず凄いと。河出書房はりさたんのお陰で社員にボーナスが出せるのではないでしょうか。
脱税など、せこいことはしないように(本文を読む前に奥付をチェックしてしまう性)。
綿谷さんは端正ですね、文章が。比喩なんかは愚直な感じなのだけれども、端正だから。いいです。まだ若いし。
イマドキの高校生の内面ってのはこんな人間関係のことばかり考えていて鬱屈しているのかな、と思うと、まあ、暗くなったりもしますが、
人間の内面を描く文学らしいので、まあいいかと。
少なくとも小生にとっての文学において、その暗さは趣味のようなものなのです(そうじゃない文学もあろうが)。


そして「にな川」くんと主人公の「タキ」(だったかな)のこのなんともいえない心のふれあい・・・ですね。理解とか、そうことを言わない感じのね、「ふれあい」。
これがリアルワールドであれば、「きもい」「ありえない」ということになるのではないか、と読みながら思いつつ
(3人で佐々木なんたらのライブに行くくだりね。主人公たちが走っててステキですが)、
ああ、これは小説なんだファンタシーなんだ虚構なんだ、と自分に言い聞かせつつ読む。
このフラットな、特に誰も死なない、感じですね。特に激しい恋もない、感じ。いまふう、と思う。いまふうである、と言い聞かせれば。
というか生活、日常はそんなものであって、別に誰も死ななくともいいのです。
人は確かに死んだり生まれたりしているのだけれども、悪意も善意もよりどりみどりなのだけれども、
蹴りたい背中」が女の子が男を思わず蹴り殺す、という話でなくとも全然よい(ひどい文章だな)。


ここで唐突ですが、これは、雑駁を承知で「女子の文学」なのではないかと思う。
ここまで人間関係ということに良くも悪くもフォーカスできるのは女子なのではないかと思うのです。
この高校という舞台設定のなせる業なのかもしれないけれど、少なくとも現実の高校生はもっとタフだし、
もっとダメだし、もっと世界を狭くキャッチしていると思う(ナイーブでフレッシュでクレヴァーな男子/女子もいるにはいると思うが)。
そういうわけで「ふうんこういうのありそう」な雰囲気では成功していると思う。まあ、フィクションと現実を並べて語るなんてアホらしいですが。
(現実なんか正直どうでもいいわけで、あの「無印良品」と体操着のコントラスト―読んでください―なんかが
ぐっと来れば小説として成功、っていうひともいるんだろーな)
実際にぼくのいとこ(先日祖父が死んで葬式で会ったのだけれど、斎場の待ち時間で彼の陸上部トークをいろいろ聞いた)なんかに読ませてみたくなったり。
(それも文学のパワーっていやあパワーだ。誰かに読ませたくなるちから)


で、最後にこんなことを云うのはひじょうにばかばかしいわけだけども、実際の綿谷さんなんかは
劇中の「絹代」(古風な名前だぜ)あたりの立ち居地でうまく高校をやりすごしたんじゃないかな、と
思ったりするわけです。このひとが、20年、30年、書き続けられたらどういう作品を書くのか。
それはちょっと読んでみたいです(ちなみに妹に借りて読みました)。端的に才ある若芽ってKANJIがEですね。