4-5 妬ましくて寂しくて友だちもいない(113〜122)



筆者は「二十年ほど前」の梅原猛の「「何が悲しゅうて、何がうらめしゅうて、こんなに書いたのかねえ。私は、人生への恨みをエネルギーにしてものを書いているんですよ。夏目漱石も、太宰治も、そうじゃないですか」というような」発言を引き合いに出して、「ものを書くということに関しては、ルサンチマンがいい方向に働く場合もあると言えそうである。むろん、それは「昇華」というものである、と言う。だが、「そういう形で昇華(消化?)し切れない怨恨というのもある」として、裕木奈江のバッシング事件を挙げ、ひとが(ここでは特に女性が)「実力とは別の要素で(「それほど美人でもないのに男に媚びを売るような視線とか態度とかで」)人気がある」場合、「「どす黒い精神」の持ち主」たちの「法界悋気」を呼ぶことが多いとし、裕木バッシング批判をした小林よしのりゴーマニズム宣言』への女性読者の反撥を紹介しながら、「つまり、「法界悋気」する者は「寂しい」のである」と結論している。


加えて筆者は社会的な希望の喪失と「ある程度関係しながら、個人的なものとして、孤独に陥ってしまいがちな人間」を「私は「もてない男」という形で示したのだが、実はそれだけではない。友だちがいないのである」と告白し、「最近いろいろと本を読んでみると、どうも全体として、男は友だちができにくい時代になっているようだ。確かに、昔の男の友人関係というのは、女性を犠牲にして成り立っているようなところがあった。だから、女性の解放が進んだ結果、割りを食ったのは私のような友だちのできにくい男なのかもしれない」と所感を述べている。


最後に、「現代日本」の「男はそもそも友だちがいないから結婚して孤独から逃れたいと思う」が、こういった「「孤独」をちゃんと書ける作家がじつに少ない」と苦言を呈し、「「童貞の苦しみを描いた小説」は見つけたが、「処女の苦しみを描いた小説」は未発見である。誰か書いてくれ」と要求し、この章は終わる。尚、筆者がここで紹介している「「孤独」をちゃんと書け」ている作家とその作品は、第一回で紹介された三木卓を含めて、以下に示すとおりである。