新年のご挨拶




明治だの大正だの昭和だのという時代区分は、何の実質的な意味もない。天皇一人の生死によって時代の内容が変わるものではないからだ。それなら西暦はどうか。これも、実質的な意味はない。外国の宗教者の生まれ年、それも四年ばかり誤って算出されたのを基にした年数を、すでに世界中に広まっていて便利だから、という理由で使っているにすぎない。西暦を百年単位で分けた世紀もそうだ。二○○○年目と二○○一年目のちがいなんて、十進法という偶然(人間の指の数が十本)に依拠しなければ、まったく何の意味もないのだ。


だが、区切りのよさが与える心理的な効果は大きい。実質的な変動が心理的な契機によって現出することはしばしばあるのだ。たとえば十九世紀末には、世紀の終わりであるという心理的フンイキによって、世紀末という退廃的・反権威的な文化風潮がヨーロッパに広がったこともあった。


呉智英『封建主義者かく語りき』(双葉文庫)


あけましておめでとうございます。「実質的な変動が心理的な契機によって現出」されるような一年にしたいものです。「おめでとうございます」と口にすることはほとんど祈りです。わたしたちの生活にめでたいことなどほとんどないのですから。しかしことばの呪術性を侮ってはいけません。めでたい年になりますように。そして皆さんが健康でありますように。