萱野稔人 / カネと暴力の系譜学(河出書房新社)



ひとついいですか、
萱野先生、「地平をくみたて」過ぎです!
「かれがいう地平というのは、ニーチェのいうperspective(展望)というタームからきているんだよおそらく。それを踏まえたフーコーのタームなんだよ」と友人は言っていた。
そうなのか。
ニーチェの地平は、horizonじゃないのか、と思った。
そしてフーコーも。風光明媚。
ええ、ニーチェは読んでないのです。
だって読むと頭がおかしくなるらしいじゃない。こわいからそんなの。
この本は読みやすくておもしろいよ。ぜひ読もう。



 所有をうみだすのは労働ではない。暴力にもとづいた収奪である。なんらかのものを「所有している」ということがなりたつためには、まずは奪われなくてはならないのだ。国家による公的所有が私有に先立つというのは、まさにこのことである。
 所有するためには奪われなくてはならない、というのはいかにも逆説的ではある。しかしこれはとても重要なポイントだ。じじつ、所有を暴力の実践よりも先にくるものとして自明視する発想はあとを絶たない。
 ただし注意しよう。
 暴力にもとづく収奪が所有をもたらすとしても、あらゆる収奪が〈富への権利〉をうちたてるわけではない。たんに強引にモノを奪うだけでは、シュミットのいう「保護と服従という永遠の連関」をくみたてることはできず、結局のところそれは自然状態における占有のレベルからぬけ出ることはできないからだ。
pp.162-163