ロックバンド相対性理論のこれからについて(あるいは沈黙によるプロモーションはいつまで有効か)





ロックバンド相対性理論のセカンドアルバム『ハイファイ新書』がよく売れているようで話題になっている。わたしも昨年(2008年)3月26日頃に門松宏明氏のブログ(id:note103)で知ってからわりとよく聴いている。楽曲の巧みさ(歌詞における押韻の緻密さやあざといボーカリゼーションetc)と演奏の技量など論じるに値するポイントはいろいろあるが、やはり販促に焦点を絞って話をすべきだろう。


彼らはMySpaceYouTubeなどのウェブサービスを通じて視聴者を獲得し売り上げにつなげたというが果たして成功の要因はそれだけなのだろうか。売り上げ枚数もプロモーションの詳細も明らかになっていないので、憶測で物を述べるのは差し控えよう。それにしても彼らの問題はこれからである。マスメディアへの露出をしないままでは、爆発的な売り上げにはつながらない。彼らの音楽的巧みさには苦節10年くらいのすえた臭いがするのだ(ベースとドラムスのグルーブに痛みがあるのだ)が、大量消費を拒むアティチュードがどこまで維持できるだろうか。実に興味深い。これだけの話題ともなれば、メジャーレコード会社がはたらきかけているのは必至で、そちらもメンバーの意向を崩さずして契約し、いかに売り上げにつなげていくかということに頭を悩ませているに違いない。安直だがいちばん話がまとまりやすそうなのは、ロックフェスへの出演とそれに連動させた国内ツアーである。東名阪+京都or福岡くらいの規模だろうか。その後メンバーを人気と熱狂という名の美酒に酔わせたままで、なしくずしに雑誌やテレビに露出させていくというやり方が良くありそうな気もするが、わたしのような素人が思い付くのでは有効無効以前のやり方かもしれない。


いずれにせよ相対性理論の態度は別に新しくない。よくある“ロック”である。しかしながら「寄らば大樹などクソくらえ」精神の発露はロック音楽にはつきもので、それがすでに意匠にまで堕ちて久しい。かつては何かに反抗/対抗することじだいがリスナーへのアピールになったが、そういった素朴さはいまやロック音楽へのアイロニー以外のかたちでは存在し得なくなった。音楽家宮崎貴士氏のウェブ日記(2009年1月12日分)を読むと、相対性理論のメンバーは「街を安心して歩きたい」と口にしているようで、氏もそれはまともな考え方だとしている。しかしながら、ロック音楽をやっていて、儲けたいとか有名になりたいと思わない奴がいるものだろうか、とわたしたちは思いがちである。それに藝能=客商売の水物的側面を考えれば「儲けられるうちに儲けとけ」(あとは野となれ山となれ)という考え方も支配的である。そういったやくざな、いわゆる山師的な“ロック”的条理からうまく身をかわしつつどうやって生き延びるのか。あなたが本当にロックが好きなら、彼らの“革命”がいかに成し遂げられるか/費えるかが本当に見物ではないだろうか。わたしは特にロックファンではないが、この先彼らがどういう道を辿るのか目が放せない。彼らの滋味に溢れる、地に足の着いた“革命”は果たして成功するのだろうか。それともこのような問いじたいがファンタジーなのだろうか。いちばん“サブカル”ロックバンド的にありそうな結末に至らないことを祈らずにはいられない。彼らなら突然解散してすべての論争に終止符を打つ可能性すらあるとも思えるのだが。


相対性理論のメンバーが沈黙を守る限り彼らの賢さは闇に包まれたままだ。するとこうやって聴き手の妄想が広がり続けていくので、やがてそこから何か面白いことが起こるのではと信じてみたい。わたしが言いたいのは、つまりそのことだけなのである。