マーク・ロスコ展@川村記念美術館




余りの陰鬱さに辟易した。しかしこの陰鬱さを1950年代後半で獲得していたのは凄いとしみじみ思えた。巨大なカンバスに複数の塗料を重ね塗りして微妙な色の移り変わりや揺れや濃淡を楽しむというのはいささか趣味が渋すぎるし、絵画美術そのものが意味論・機能論的な記号の解釈闘争であることに疑義を提示しているにしても、その知性の在り方は息苦しく、いかにも作者の自殺を予感させる不安と絶望へ至る静的な運動に満ちた作品群であった。


こういう作品は渋谷や銀座といった膨大な資本が常に循環する都市で展示されたほうがずっと効果的に思えたが、都会から電車に揺られ、新緑がイヤというほどあふれる千葉の田舎で観るのも案外風変わりで面白かった。いずれにしても、あの絵が並べられるとはらむ死の予感は、観客誰もがいつかは受信せざるを得ない調べであり、それを先行して感受するのはなかなか貴重な体験ではあったが、つらかった。抽象画にあまりに意味を求めすぎているのかもしれないが、わたしは何事にもたいてい意味を求められずにはいられないのだ。意味を捏造せずにはいられない病態にあるのかもしれない。