高橋昌一郎『知性の限界』から読む哲学入門―本当は恐ろしい知性について



知性の限界――不可測性・不確実性・不可知性 (講談社現代新書)


 晩秋がそろそろ初冬に変わろうとする2010年の東京。会社員Sはさしあたり読書家と呼ばれている男である。その彼が渋谷区東に所在する、くにのもといをきわむるところの若木タワーにT教授を訪ねた。


S「先生、ごぶさたしてます」
T「おお、佐伯元気だったか」
S「ええ、まあ、いろいろありましたけど、この10年」
T「そうか。そりゃいろいろあるよな」
S「ところで、先生の『知性の限界』 拝読しました」
T「THANK YOU!どうだった?」
S「おもしろいですね。すこぶるおもしろい」
T「そうか。どこがおもしろかった?」
S「いやもう全体的に面白いんですけど、一度読んだだけじゃ「理解」できませんね。クルト・ゲーデルによる「神の存在証明」。わたしは本書でこの点についての印象が強く残りました。といっても、わたしはゲーデルについて研究されていた先生についてあらかじめ「知っている」ので、卵と鶏どちらが先かという話も。というか、この本を手に取ってしまったことでいろいろなことを考え始めて文字通り興奮して眠れなくなりました。読み始めてまず思ったことは、正直迷惑、です。なぜこんなに恐ろしい本を出したんですか?『本当は恐ろしい知性について』というタイトルにすべきです!」
T「それは言いすぎだろう!うれしいが、いや、うれしくない!もっと誉めてくれ。で、きょうは何の用事かな?」
S「わたしも知に焦がれ、とりつかれる者のはしくれとして、いやいや、嘘です―もっと謙虚にならなければ―いわゆるひとつの本読みの、活字中毒の会社員としてですね、同病の社会人や、そうだな、学部の後輩たちにどういう本が哲学するのにいいかという紹介をしようと思ってやってきました」
T「佐伯、おもしろいよ!」
S「いえいえ、恐縮です。身の程知らずですみません」
T「じゃあ、はじめてくれ」




S「コホン。でははじめます。まず哲学とは考えることです。考えて考えて考えて、さらに考えて考えることですね、先生」
T「然り、問うことだね。問い続けることだね」
S「いままさに生き続けている、つまり、病みつつあり死につつあるわたしにとって、問い続けることにおもしろさがあり、さしあたって答えがでようとでまいと問い続けざるを得ないのです。しかし、大方の人々にとって生活や仕事以外のことがらにおいて論理的に突き詰めて考えることは、おおむねからだに悪く、しかも継続的な思考を伴うのでなかなか大変です」
T「うーん、傾向としてはそうかもしれない。まあ、何もないところからいきなり問い始めるのは難しいだろうな。生活の中にも問いは満ち溢れているんだが、なかなかね。われわれはどうしても意味や意義や価値というものを無反省に信じてしまいがちだ。さらに言えば、花より団子主義、いや花より団子な傾向にあるといっていい」
S「そうなのです。だから、先生の著書を読んだからといって、いきなりゲーデルが読めるかというと、そういうわけではないですね。もちろんそういった、「いわゆる」知的レベルの高い読者というのもある程度はいるでしょう。しかし、そういう人たちには別に指南しなくてもかまわないのです。すくなくともわたしから申し上げることは無い。なぜなら彼らは自ら問い、読むからです。というか、いままさに問い続け読み続けているからなんら問題無いのです。あとはですね、実際的なことを考えると、彼らは研究者であり続けようとしているか、もしくは研究者をめざしている人々ですね。彼らの大方はやはりそれなりの切実さを元手に刻苦勉励しているわけですから―もちろんわたしがそのように見なしているに過ぎませんが―怠けている自分の尻を叩きながら、しかしその叩く手をしばしば休めながら、苦しみと喜びの狭間を絶えず往還しているわけであり、そのような学徒にはさすがにおこがましくてわたしは何も・・・」
T「ちょっと待て!その饒舌さは俗物っぽいぞ、佐伯。それは本当に、真に知的な態度と言えるのかどうか!不断無く反省し続ける必要がありそうだな・・・」
S「はい、すみません。わたしが真に知的か知的でないかということを問い始めると、きりがありませんので、とりあえずここではわたしは遅的かつ痴的な会社員ということにしておいてください。ところで、ではまず、ええと、老若男女にオススメの1冊、池田晶子14歳からの哲学』 !」
T「おお、これはベストセラーになった本だな」
S「はい、しかし哲学することの難解さはこの1冊に詰まっているといってもいいです。文章は平易でも本質的には難解です。たとえば、ここから読んでみてください」
T「なになに、ふむふむ」

 善悪は自分で判断するといっても、人は、善悪と快苦を間違いやすい。「善悪」とは「快苦」のことだと思うんだ。快いことがよいことで、苦しいことが悪いことだと思うんだ。でも、これは必ずしもそうじゃない。病気の治療は痛くて苦しいものだけれども、それは自分がよくなるためにはよいことで、決して悪いことではないね。逆に、体に悪い食べ物は、おいしくて快いものでも、それを食べるのは自分に悪いことだとわかるね。快楽を求めて苦痛を避けるのは、動物の生存の基本だけれども、善悪の判断は人間にしかできないことだ。なぜかって、人間は言葉を所有する動物、「善悪」という言葉を知ってしまった動物だからだ。知ってしまった限り、人は、よいことしか為すことはできない。悪いことを為す人は、それを悪いことだと知らない。悪いと知らずに悪いものを食べる人のようにね。


池田晶子『14歳からの哲学―考えるための教科書』p.163

S「いかに善や悪について考えることが難しいか分かります。正直、わたしはなかなか興味が持てませんね。善とか悪とか。善とか悪について考えるくらいなら、お気に入りのイタリアンでチーズクリームソースのニョッキをつまみながら、白ワインを傾け、美食の罪深さを、己がいかにエセグルマンでありグルマンでもグルメでもないかということについて、そして我が血中にて高まり続ける悪玉コレステロールの値について茫洋と思いを馳せたほうが実に甘美です」
T「なんと!知的怠慢だぞ、佐伯。まあいい、すすめてくれ」
S「純粋で自己愛をもてあましている若者、とくに高校生や大学生には中島義道「哲学実技」のすすめ』です。これはカント学者として、それから哲学的かつ実存的かつ自嘲的かつ自虐的かつ自己愛的かつ厭世的なエッセイでも人気の中島先生の哲学実技のすすめです」
T「なんだその説明は!もっと簡潔かつ的確に!」
S「すみません。で、この本は乱暴にいうと、著者がカントの考えを啓蒙する恐ろしい1冊です。この本を読んで、数人で集まって実際に議論をしてみたんですが、とてもおもしろかったです。ひとりで黙読するのも、もちろん恐ろしく面白いですが、いろいろな人と議論するのにとてもいいと思います」
T「よし、次!」
S「長谷川宏生活から哲学する』です。この本は世間と生活の荒波に揉まれそこから逃げ出したくなったりしかしそれでもなんとかふんばって日々働いているお父さん、お母さん、おじさん、おばさんに勧めたいですね。この本もとてもいいことを言っています」

 現にあるこの世界に根本的な違和感をもつこと、あるいは、現にいま生きている自分たちの生きかたに根本的な疑問を感じること、そこに哲学の出発点はあると思います。そこから、この世界の全体としてのなりたちを探究する試みや、自分たちの生きかたの根拠を追究する試みが生まれる。あるいは、現在の世界や生きかたのむこうにある、もっとすぐれた世界や生きかたを構想しようとする欲求が生まれる。それが哲学的思考といわれるものです。
 大風呂敷はそのぐらいにしておきましょう。ただ、哲学に取りつかれるのは、とくに日本では、けっして利口な生きかたでないことだけは言っておいたほうがいいかもしれない。いまある世界や、いまある生きかたにうまく合わせて生きるのが賢い生きかたであって、違和感や疑問にこだわるのは融通の利かない偏屈な生きかただとするのが、世間一般の常識ですから。哲学とか思想とかいわれるものが、なにやらうさんくさいものに見られるのも、そういう世間常識の反映でしょう。もっとも、わたし自身、哲学にかかずらう自分のことをうさんくさく思わないでもないのですが(笑)。


長谷川宏『生活から哲学する』pp.25-26

T「うむ」
S「非モテ的実存に悩んでいるオタク的な青年男子・女子には本田透喪男の哲学史』をすすめます。非モテから哲学するを考えるという非常に読みやすくしかも示唆に富んだ1冊です」
T「そうか」
S「あの、わたしは思うんですが、哲学というのは、誰もができるものではなくて、こう、実存的な要請が、しかも差し迫った何かがないと考えないと思うんですね。というか、考え考えするとなかなかあのう、こう、生きていくのが難しいですね。たとえば、わたしが、若かりし頃の、イーディ・ゴーメのような美少女であったとします。


Blame It on the Bossa Nova


その美少女であるところのわたしが、バイト先のユニクロでバイト仲間の東大生と早大生とほぼ同時に告白されてどちらと付き合おうかと考え考えすると、決して付き合えないではないですか」
T「現実には、決断しないと付き合えないな」
S「そうです。どちらがいいか、そのときの限られた時間、チャンス、状況に基づいて決断して実際に行動に移さねばならないわけです。という風に考えると、まず読みたい、哲学するということの大切さ、切実さはともあれ、とにかく読めるようになりたい、という需要もあると思うんですね。田中美知太郎『哲学初歩』はそういう点において、一番実際的な哲学入門かもしれません。というかこれは役に立ちます。もし哲学の本を読んで考えることをしたいのなら、という限りでは、ですが。少なくとも今のわたしからはそのように言えるかと思います」
T「風雪を経ているものはやはり優れたものが残るという経験的な事実は否めないよな。すくなくともその傾向があることを認めざるを得ないだろう」


S「さて、ギリシャの哲学に行きます。まずはソクラテスですね。ソークラテース。ソクラテスプラトンソクラテスの弁明・クリトン』です。これを読む前に池田晶子ソクラテス3部作を読むといいと思いますね。すなわち『帰ってきたソクラテス』『ソクラテスよ、哲学は悪妻に訊け』 『さよならソクラテス』の3作です。いまはこれをまとめた合本も出てます」
T「うむ」
S「で、ぶっ飛ばします。勉強不足を承知で乱暴に言えば、アリストテレスについて考えるヒントとしては、アリストテレスが影響を与えたアクィナスを考えるといいと思うのです。すると結局神学について読む必要があるのですが、それにはマクグラスキリスト教神学入門』 が最適です。これは大部ですがきわめて平易な言葉遣いでとても優れています。アリストテレスそのものについては『心とは何か』をおすすめします。といってもこれしか読んだこと無いのですが」
T「なんだか凄いな、お前の紹介は」


S「つぎはデカルトです。『方法序説』がいいですね。わたしは正直デカルトが読めません、文字を追うことはできても、腑に落ちるという経験はまだしたことがありません。タダで読みたいなら山形浩生の訳もあります」
T「ほう」
S「そしてカントです。カントはなんといっても『純粋理性批判』でしょう。美大卒の友人によれば美大生は『判断力批判』を読むらしいですが、文学部ならなんといってもこっちです。これは光文社古典新訳文庫の評判が良いですが、格調の高さなら岩波文庫版をおすすめします。哲学プロパーなら別ですが、中島義道カントの読み方』『「純粋理性批判」を噛み砕く』などを脇において読みすすめるのも良いんじゃないですかね」
T「佐伯、お前は『純粋理性批判』を読んだのか?」
S「2行読むたびにそれなりに理解するのに30分くらいかかり、そのうち頭がぼうっとしてきて、眠くなってしまうのでまだほとんど読んでいません」
T「それで本を人に薦めようとするなんてお前勇気あるな〜。蛮勇に近いものがあるぞ」
S「仰るとおりだと思います。しかしながら、わたしはそれと並行してヘーゲル精神現象学』を読んでいます。なんというか、この身の程知らずさには我ながらあきれますが、後者は長谷川宏の訳ですから読みやすいので楽しいですね。といってもやはり5ページ読み理解するのに20分くらいかかるから、読むことの意味を問い直さざるを得ないし、カントと同様に読んでいるうちに頭がしびれてきます。というかヘーゲルは眠気を呼ぶというよりは、読んでいるととても興奮して眠れなくなってしまうので最近は自重してます。実際問題、会社勤めをしながら毎晩夜の10時、11時にこういうものを読んでいると、生活に差し支えるんですよ、翌朝起きられなくて。あとは疲労が濃ければ、読みはじめるや否や寝てしまうこともあります」
T「ははは、おもしろいな。しかし、適当なところにしてもらいたいな。会社員としての生活も大事だぞ」
S「仰るとおりです。あとわたしが読んできたところで言うと、フッサールというか現象学入門には橋本治「わからない」という方法』がいいと思います。ハイデガーは難解といわれますが、『存在と時間』は読めます。といってもわたしは独力で読めるようになるのに10年かかりました。というか最近『存在と時間』が読めるようになったのでそれが嬉しくて恐ろしくて楽しくてたまらない毎日です。先生が『知性の限界』でも触れていらっしゃるウィトゲンシュタインは『論理哲学論考]』しか読んだことがありませんが、果たして読んだことがあるといっていいのかどうかはなはだ疑問です。永井均ウィトゲンシュタイン入門』 が入門書としては優れていますね」


T「佐伯、悪いが用事を思い出した!適当に切り上げてくれ」
S「はい、では駆け足で行きます。『知性の限界』で取り上げられているポパー、ヘンペル、ナイト、ファイヤアーベントといったあたりの人々の本を私は読んだことがありません。科学哲学についてはなかなか食指が伸びず不勉強ですので、このあたりの本は紹介することができません。しかしながら、本書でも精神分析学者が登場していますので、フロイトユングについては河合隼雄南伸坊心理療法個人授業』や鈴木晶フロイトからユングへ』 が何も知らない読者でも楽しく読めると思います。構造主義や文藝批評から哲学を知りたいなら内田樹寝ながら学べる構造主義』と筒井康隆文学部唯野教授』 を読み、心から面白がれれば、紹介されている著作をかたっぱしから読めばいいんじゃないかと思います」
T「まあ、なんというかきわめて乱暴だな。でもお前がいろいろ本を読んでいることはわかったよ」
S「恐縮です。でもそれを自慢をしたいわけでは無いんですよ。自慢をしたいんだろうって思われるかもしれないですけどね。まあそれは仕方が無いです。こういう架空対談を書いているくらいですから。お前そもそもこんなもの書いて自分を承認されたいんだろう、と突っ込まれたらそれは否めません。でもね、いまの学生にも、それから、考える若き会社員にも哲学の、考える頼りになる話っていろいろあると思うんですね。それは娯楽作品の中にもたくさんあるんですよ。たとえば、先生もお好きな涼宮ハルヒ
T「うん」
S「たとえば『涼宮ハルヒの憂鬱』は存在について考えるのにとてもいいと思うんですね。正直ハルヒシリーズは地の文がキョンの独白で延々進むのでその素朴さが少々きついものがあるのですが、わたしは全作品読みました。その中でも、『涼宮ハルヒの消失』は特筆に価する作品です。情報統合思念体によって造られた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インタフェースであるところの長門有希、これは作中では宇宙人として扱われているんですが、これはもうなんというか興奮しました。決して、長門萌えではないですよ。わたしはいまいち萌えの概念がよく分からないのです。萌というのは考えるものではなくて感じるものなのかもしれませんね。
 それから、高畑京一郎タイム・リープ あしたはきのう』も時間について考えるのにとてもいいですね。この作品は筒井康隆時をかける少女』からの影響が極めて顕著だと考えますが、この作品も時系列をリスト化しながら読むと、とてもおもしろいです。『時をかける少女』に対する批評としては細田守監督によるアニメ映画『時をかける少女』も良かったですね」
T「お前、だんだん方向性が違ってきているような気がするんだが。ところで『知性の限界』の感想については聞かせてくれないのか」
S「先生が大学の教室などで実践されていること、つまり有数無数のディベートの機会、その場における先生の言葉と、それに対する学生の真摯な、そして時に驚きに満ちた問いがいまもわが学び舎ではめぐっているのだな、としみじみ感じました。
 いま巷ではマイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』に人気がありますね。この「正義」はむしろ公正と訳されるべきとわたしは考えます。それはともかく、わたしは彼の著書を読みNHKで放映された番組も観ましたが、どうも違和感がぬぐえない。というのはあれはきわめてレベルが高い。いやそれはハーヴァード大学(日本では東京大学)での講義なのだから当たり前のことなのかもしれませんが、しかしなんというか、サンデルさんは政治哲学が本分ですね。で、非才のわたしのこれは思いつきに近い考えなのですが、ハーヴァードと聞いて連想するのは、鶴見俊輔です。鶴見さんがあすこで学んだのはプラグマティズムですね。ハーヴァードがいまもプラグマティズムの殿堂かつ実践の場であるという仮定が正しければ、やはりサンデルさんが人気を得るというのは、米国の哲学のあり方の伝統に連なると思うのです。つまり、哲学を実際に何かを考えるときに役立てようという考えとその実践をつねにおこなっているのがサンデルさんだと思うのですね。
しかしわたしは彼のあの態度にどうも違和感をぬぐえない。哲学というのはどうもそういうものではないのではないかと思う。というより彼の態度というのは本質的に政治哲学的であるような気がする、と。政治は利害の調整を意味するわけですから、何かを考えるときにそれが役立てられるかということを考えるのです。そこまで道具主義的になれないぞ、わたしは。それはなぜか?それはやはりわたしが日本人だからではないか。日本語で考え、日本で生き、日本で暮らしている、日本で日々働いているわたしだからではないか、という考えに至ったのです。ですから、サンデルさんが行っていることはもちろん立派で、正しいとか間違っているかという判断をすることはまったく意味が無いし、それをできるとも思わないのですが、しかし、『知性の限界』とサンデルさんの著書だとどちらが、日本という場にふさわしいか。そりゃ日本語で考え、日本で暮らして、日本で日々働いておられる先生だろうな、と思うのですよ。誤解されても仕方が無いのですが、わたしはサンデルさんを貶めて先生を持ち上げようとなどとは思いません。なぜならわたしが日本語でこのように考えている以上、英語で考えているサンデルさんの考えをどこまで批判検討できるかという疑問がぬぐえないからです。ですからこれ以上のことばは慎みます。
 いずれにせよ『知性の限界』については本当にまだ自分が読めたか読めていないのかどうかという根本的な問いがあるのですよ。だからどうも感想が書けないのです。書いていたら1万字を超えてそれを圧縮して4000字にまでしたんですが、まったくそれはどうもわたしの独白でとりとめがない。それはとりあえず破棄して―ドキュメントファイルなので実際にはわたしの会社と自宅のPCにデータが残っているのですが―このような感想にしたのです」
T「そうか、じゃあ、わたしの次の著書もぜひ読んでくれ」
S「はい。そして、しばらく『知性の限界』については考え続けていきます。折に触れて思い返すと思います。というかおそらくいろいろなことについて考えるよすがとなる書物であり続けるという予感があります。わたしはいま読書会を主催しているので、そこでもできればこの本について論じ合いたいですね。といっても、いつその議論が終わるかどうか分からないので、とりあげることすら恐ろしいのですが」
T「わかった。じゃあ、またいつでも遊びにきてくれ。実際にわたしを訪ねてくれてもいいが、しかし、基本的には忙しいので、本を通じてわたしを訪ねてくれるので十分だと思うな。じゃ、元気でやれよ」
S「はい、先生もお元気で。失礼します」


 T教授の研究室を出て、エレベータに乗った会社員Sの額からは玉のような汗がしたたり落ち、その両の頬は熱く紅潮している。彼が若木タワーを出ると、空には鉛のような色の雲が恐ろしいスピードで西のほうへ流れている。時折、強い風が吹くので、Sはバックパックから襟巻きを取り出して身につけ、ゆっくりと渋谷駅へ向かって歩き始めた。


追記


 わたしはかつて國學院大學文学部に在籍しており、大学1年次(1999-2000年)に高橋先生から学恩を受けた。あの頃から、いやおそらくそれ以前からだと思うが先生の知に焦がれる構えはちっとも変わっておられない。こう書くと、わたしは著者にたいして明確な敬意を抱いていることがあきらかだ。したがって、批判的なことばを連ねることは予め封じられているといってもいい。というよりむしろ、本書は一読の限りでは批判することすら難しいのだ。それがわたしの実感である。
 したがって、ここでは『知性の限界』を通じて哲学に興味を持った方について、なにか手がかりになる本はないものかと考え、対話形式でブックガイドを書くことにした。もちろんこの対話に登場するT教授は、わたしが実際に謦咳に接した高橋先生をモデルにしているが、実際の人物とはほぼ関係が無いということをお断りしておきたい。まったくの無関係ではないことは、ここで述べたことからもお分かりいただけると思う。最後に、このような雑駁な感想を認めた不躾さを高橋先生にお詫びしたい。そして、先生、まことにおもしろい本をありがとうございます。


                                                                                                        佐伯 一彦