高橋昌一郎 / 知性の限界 (講談社現代新書、2010年)



 『知性の限界』は立派な本である。文章は端正で、おおらかなユーモアがある。内容も明晰で質実を備えている。わたしはまず書店で購入してから、最初は興奮のあまり大急ぎで読みすすめ、次に不明点を書き出し整理しながら読み終え、最後にゆっくりしみじみとそれを味わった。さしあたり、三度繰り返して読んだ。まさに僥倖である。なぜなら、わたしは読書好きの会社員だからである。
 会社勤めをしながら本を読み続けることはなかなか難しい。体系的な読書をすることはなおさらだ。したがって、興味を引かれたものを手当たり次第に読んでいるというのが実情で、本当に心を打たれる作品は年に十指に満たない。さらに言えば、ひとたび心を打たれたとして、それらを繰り返し読むかどうかはまた別だ。日々の疲れを忘れ、繰り返し惹き入れられる本には限りがある。折を見て読み返すに値する本はさらに限られるが、わたしにとって本書はそのような本の一冊である。読書家が本書を繰れば、必ず著者の余徳に潤うことを約束する。


 一読して、わたしは本書の構造の明晰さに心打たれた。したがって、野暮は承知でその明晰さがどのような仕組みで感じられるようになっているのか考えてみたい。
 『知性の限界』は大きく3章に分かれている。まず第1章で主に扱われるのはウィトゲンシュタインだ。ウィトゲンシュタインを通して、読者が言語の限界について考えられるようになっているので、すこし細かく見ていこう。
 まずは前著『理性の限界』のおさらいがあり、そのあと、言語の限界についての談話が始まる。第一にウィトゲンシュタインの前半生の考えがつまびらかにされる。具体的には『論理哲学論考』におけるパラドックスが述べられる。そして、ウィーン学団の紹介で読者に息抜きさせたのち、ウィトゲンシュタインの後半生における、その厳しい思考のあらましが平易に分かるようになっている。わたしは本書を読んで初めてウィーン学団の存在を知ったが、ここで読者に一息つかせながら、きちんと話がウィトゲンシュタインにつながっていくのは見事である。しかも、彼らの逸話をおりまぜながらその難しい考えを語るところは、読んでいてすこぶる楽しい。
 さらに読みすすめると、サイエンス・ウォーズ、いわゆるソーカル事件についての解説となる。ここでソーカルに興味をもたれた方は、彼とブリクモンの共著『「知」の欺瞞』を読むといい。あなたがもしオフィスに通う会社員なら、これは休みの日にゆっくりと読み進むにふさわしい一冊である。


 第2章で扱われるのは、予測の限界だ。この章で最も優れているのは、複雑系地震予知の不可能性、つまり、身近な問題に引き付けて語るところである。100パーセント当たる地震の予測が不可能、という話は難しい事柄をイメージとして捉えるのに、たいへん親切で印象的である。とくに本書の読み手はほとんどが日本人だから、誰もが地震を経験している。すると、地震の話はきわめて身近で分かりやすい具体例といえるだろう。このように、難しい概念(体系)→具体例1(研究者による画期的な発見)→具体例2(多くの読者が得心できる事実にもとづく考え)とつぎつぎに示される細やかな配慮が、著者が教壇に立って蓄え続けた知の構えへと思いを至らせる。本書を一読して誰もが読みやすいと感じるのは、ここで述べたとおりその緩急が流れるように巧みだからである。


 さて、第3章で扱われるのは、思考の限界だ。前著『理性の限界』に当たらず、本書に触れた場合、突然あらわれる物理定数や微調整ということばに面食らう読者も多いだろう。しかし、ここでも著者はファイヤーアーベントの紹介を行い、これらのことがらを彼の奇抜なエピソードを通して伝えることでとらえやすくしている。ファイヤーアーベントの考えには強い毒があり、とてもおもしろいので、実際に本書を手にとって読んでもらいたい。本当におもしろいと感じれば、巻末の参考文献から、彼についての書物にあたるとさらに楽しいはずだ。
 このあとは本書の肝といえる神の存在証明についての話である。ここでは大きく3つの証明についてページが割かれている。すなわち宇宙論的証明(アクィナス)、存在論的証明(アンセルムス、ゲーデル)、目的論的証明(ペイリー)である。これらの証明が、大方の日本人にとってどういった意味を持つのかわたしは分からない。極端に言えば、篤実な神学者、哲学者、数学者、論理学者にしか意味がないのかもしれない。しかし、神学論争ということばを喩えで用いることがあるように、わたしたちの生活や仕事の難題はしばしば意味の解釈の問題にある。
 たとえばあなたが勤め人であれば三波春夫の「お客様は神様です」ということばを覚えているだろう。「お客様は神様です」という言明を一つの命題としてとらえて、これが真か偽かと考えるのはおもしろいのではないかとわたしは思う。こういった考えや態度をスノッブであると笑うのはたやすい。しかし、わたしたちの日々の生活においても、ものごとを論理的に考える必要がしばしば訪れるから、実際にそういった遊びをしてみるのが楽しいとわたしは信じている。遊びは真剣にやればやるほどおもしろい、ということは言うまでもないだろう。


 学問の本性が、学ぶ人がいろいろな人の考え、事件、人物に心打たれ、その知識や見聞を広めること、つまり知に寄り添い、それを分かち合うことにあるとすれば、その根本には面白く感じられることがある。学問の面白さに詩情やロマンチシズムに通じるものがあることは、学問そのものを生きている人にとっては自明のことかもしれない。なぜなら学徒として生きることは、限りなくその実存と深く関わらざるを得ないからである。分かることは時として、知り、分かることそのものへの畏れにつながるので、日々自分が知ることそのものを対象化することは難しい。生きているわたしたちが、いままさに生きていることそのものを対象化するのが難しいように。それでもわたし(たち)は知ってしまうし、知ろうとして知ったり、知らなかったりし続ける。「知ることにはどんな意味があるか?」という問いは真に人間的な人間を目指すならば、常に付きまとう難問だろう。
 わたしが「知る」についてさしあたって言えることは、面白いことは面倒だ、ということだけだ。なぜなら面白いことはたいてい込み入っているからだ。込み入っていることを込み入ったまま分かる人もいるが、大方の人は自分が本当に必要に迫られないと、込み入ったことを込み入ったまま分かろうと構えない。したがって面白いことは面倒くさいことそのままで、なかなか面白くならず、世界の片隅で押し黙っている。そこで専門家の出番だ。しかし、専門家というのは込み入っていることを込み入ったまま分かりがちな傾向がある。これは、一般的に言えば、難しいことが素早く分かる=頭がいいということだ。しかし大方の人にとって、難解な観念、つまり、その対象が分からない(ということも分からない)、あるいは分からないということも、ある程度は分かるが、さらに分からないところもある、という果てのない考えは、それに向き合ったり、向き合うのが嫌になったりすることに通じる。すると自然と頭がいいことをめざすのは止めてしまう。世間で生きていくには人情の機微に敏感であることを求められることも多いから、それも時として考え続けることの妨げになりうるだろう。
 本書の著者はこのようなことをからだで熟知しており、しかも教えることにきわめて丁寧で、論理的な明晰さを併せ持っていると言っていい。だからこのような本が多くの人に喜ばれるのである。


追記


本書は『理性の限界』の続編として書かれたように大方の読者は認識している。しかし、わたしの理解では『理性の限界』『知性の限界』は2冊で併せて1冊である。つまり、これらはふたごの姉妹のようなものだが、そのことについては、折を見て書くことにする。