倉多江美 / ジョジョの詩 (フラワーコミックス / 小学館)



まろんさんに貸して頂いた倉多の単行本では、時系列に並べるとこれが一番
最初の様だ。昭和50年に発表された作品が収録されている。それにしても!!
ここに収録されている「ジョジョとカーキ姫」シリーズの連作が、どれも
すばらしい。ギャグ作品では「ぼさつ姫」がたいへん良かったが、ストーリー
作品ではこの「ジョジョとカーキ姫」が、とてもいい。空に自由に絵の描ける
ペンキ屋ジョジョと黄楊の木城のひとり娘カーキが織り成す幻想風味なまんが、
とはいささか乱暴な要約のように思うが、表題が表している様に、実にリリカルな
空気感が心地よい。ちょびっとSF風味な「パコの家」(嗚呼ペチカたん・笑)と
ジョジョが黄泉の国へ迷い込んでしまう「秋の入り日」がきわめて秀逸。というか
心に残ってやまない感じ(笑)。この繊細な感覚と「ぼさつ姫」のような壊れた
感じを両方描けるというのは奇才といって差し支えないだろう。おそらくそれは
コインの裏表のようなものだったと思うのだけど。このように優れた作品を10代の
多感な頃に読めた少女たちは実に幸運だったのではないかと思えてならない。


というわけで、まろんさんに与えられた第1の試練(?)は、無事クリアした(要するに
全巻読破した!ということです)訳だが、ぼくはこれらの少女マンガを読みながら、
その日偶然聴いたり読んだりしたほかのものに、少女マンガ性を見出さずにはいられ
なかった(笑)。たとえば、それは読んでいるとなんともいえない繊細さが気恥ずか
しくさせる北村薫の文章であったり、あるいはもう壮年というか老境に近いあがた森魚
歌がもつ蒼い感覚であったりする。それらはどちらも男性がつくりだした表現物に違い
ないわけだが、イノセンスな乙女の感覚(笑)というのは、どちらかというと愛と幻想の
おっさんイズムの中に潜んでいるのかもしれない、などと思ったり。少女マンガ性という
造語は扱いやすいけれども、これを定義することなしにブンブン振り回すばかりでは
独善的に過ぎるだろうから、今しばらく機会あれば研鑚を積んでみようか(笑)。