宮沢章夫「百年目の青空」(マガジンハウス)読了



宮沢のエッセイを初めて
読んだときにまず思い出したのは、中学時代夢中になって読んだ椎名誠
エッセイだ。椎名のエッセイには東海林さだおの軽妙なや赤塚不二夫のまんがの
テイストが垣間見られた。彼のほかに、‘昭和軽薄体’と括られた文体の作家で
ほかにどんな作家がいたか、ぼくはよく知らない。


宮沢の文章は一読してみるとひどく奇天烈な印象を受ける。このひとはちょっと
頭がおかしいのではないのか、などとさえ思えてくる。奇妙な脱力感が売りだ。
しかし読み進めるにつれて、よくこうも面白おかしい文章が延々と書きつづけ
られるものだと思えてくる。そして、あの脱力感はいつの間にか、書き手への
ささやかな敬意に変わっている。この心境の変化は、彼のものをみる視点が、
ひときわ柔らかいことによる。ときにやっつけで書いているように思われる文章も
あるにはあるが、これは本気で書いたのか適当に書いたのか、と読んでいる間に
酩酊したような気分になるのもなんともいえず心地よい。実に中毒的な魅力に
溢れているのだが、ただその反動として飽きられるスピードも早いかもしれない。


ネット上では、宮沢の文章に通じるような雰囲気を、いくつかの個人日記から
感じ取ることができる。あくまでも自分の日常的な身の回りのことから題材を
拾ってきておもしろおかしく料理する。上手に脱力している文章は職人的な
気風さえ感じさせるものが少なくない。たいていそういう書き手は、何か本業の
傍らライター仕事に手を染めている場合が多いのだ。そんなことからも、わかる
ように、脱力したり自虐したり、ときに気違いめいた文章というのは、本当に
始終脱力したり自虐したり気が違っている人には決して書けないものだ。それは
常に弛緩している人間には、弛緩しているそのさまを描写できないという、ごく
当たり前の理由によるのだけれど、彼の書いたものを読んでいると、われを忘れ、
あまりのおかしさにたびたび吹き出してしまうので、「ひょっとしてこのひと頭の
ねじが外れているんじゃないかしら」とつい思ってしまう。しかし、よく考えてみると、
もし本当に頭のねじが外れている人間の書く文章がおかしいのだとすれば、
それは本当に書き手そのものが壊れているおかしさに他ならないはずだ。
読む人をたびたび吹き出させる笑いは、頭のねじが外れている人間によるもの
というよりは、頭のねじをゆるめることのできる人間によるもの、といえるだろう。
むろん「笑い」の基準は受け手によってみな違うわけで、いったい何を
「書き手そのものが壊れているおかしさ」と定めるか、あいまいではあるのだが。


宮沢は、ひとの固くしまりがちな‘ねじ’をゆるめるのが得意な人間なのだろう。
そして彼自身、自分の‘ねじ’をゆるめる達人に違いないように、ぼくは思う。
文筆家においては一見文章では軽薄なように見えて、その裏に鋭い知性を秘めて
いる者が多いようだ。実際、宮沢の富士日記を読むとそのやわらかい文体には
共通する感触があるにせよ、エッセイで見せる彼の顔があくまでも彼の持っている
ひとつの側面に過ぎないということがよくわかるはずだ。