小谷野敦『評論家入門』(平凡社新書)について



タテイシさんのブログを見たら、小谷野敦『評論家入門』(平凡社新書)について書いてありおもしろかったので、タテイシさんの文章を引用しつつ、少しだけ触れておきます。



文章はとっても面白いけど言葉の端々に「怨」だとか「恨」とかいった文字が見え隠れするのは気のせいかしら?


気のせいではありません。小谷野氏の代表作ともいえる『もてない男』はもっと凄い。
小谷野氏自身が女性にもてなかったことに対するルサンチマンに貫かれている一冊です。
氏の著作は受け入れる人と、受け入れない人と、はっきり別れると思う。
エッセイの多くは、氏のルサンチマンが動機を占めることもあり、決して品がいいとは言えない。
しかし、小生の場合、むしろ品が無くあられもない文章が魅力的に感じられて読み続けるわけです。



精神安定剤、坑鬱剤、睡眠導入剤を用いるといい」とか「米国などでは、精神的ストレスの大きい仕事をする人は
たいてい常用している」とか書いてるのは言語道断で何無責任なこと書いてんだバカと言いたい。


まあ確かにあまり慎重な記述とはいえないけれど、氏のほかの著作を読むと小谷野氏は神経症等で
かなり苦しんでいることがわかる。それにここでは読者一般に服薬を薦めているわけではないし、
後段ではいろいろ論争する気の無い人にはエッセイがいいんじゃないかといって薦めたりもしている。
だから「無責任」「バカ」というのは言葉が過ぎるし、言うまでも無く読者の読解能力も試されるものだと思います。



まぁ別に「正しいこと」が前提で、愛情や謙虚さがある「正しくて美しい文」は小谷野さんが言っている
「下手で正しい文」よりも良いことだと思うんですけど。「評論家入門」という看板を掲げて語るなら、
尚更そういうふうにフォローを書いてあったほうがいいんじゃないかなぁ。正しいことは前提じゃないのかな。


この本は『評論家入門』というタイトルだけれども、如何にして書くか(評論するか)という前提の、
まず「評論」とは何か、「評論」を「読む」とはどういうことなのか、というところからはじまっている。
そこで、筆者は文筆家であると同時に研究者でもあるわけだから、学問的な「正しさ」ということに
ついて言及しているわけだけれども、では、その「正しさ」とは何かという問いもある訳で、言うまでも無く
「正しくて美しい文」とは何か、という問いもある。「正しいことは前提じゃないのかな」とタテイシさんのように
あっさり問えない煩悶や葛藤が、筆者にはあるのではないでしょうか。


筆者にとって「正しいこと」はむろん「前提」であると言っていいのだろうけど、その「正しさ」と「美しさ」について
よっく考えようぜ、というのが小生が本書から「読み取れた」ことです。留保なしに「信じ」がちな(「真の愛情」や「謙虚さ」
「正しさ」「美しさ」というのはある種の信仰だから)、その「前提」じたいを疑う必要もあるんじゃないか、ということ。
「正しくて美しい」ということが両立することは、ないとは言えないけれど、きわめて難しいということもいえると思うのです。
つまり「正しい」ということばと、「美しい」ということばは対義語ではないけれども、相反する要素を大いに含んでいるのではないか。
いま手元に本が無いので、本来これはきちんと筆者の文言に則して、書くべきなのだろうけれど、小生の感覚としては
「正しさ」は「倫理的な判断」でかつ「実証的」、「美しさ」は「印象的な判断」でかつ「非実証的」なものです。


久々に駄文を弄してしまったのでこのへんにしておきます。